大塩平八郎、彼の名前を聞いたことがある人はどれくらいいるでしょうか?
私は、大潮平八郎の正義感が強いところが特に気に入っています。
大塩平八郎は寛政5(1793)年の生まれで、大坂町奉行所の与力の子供として生まれました。
平八郎の家族は代々大阪町奉行所の与力として働いていたので、平八郎も子供のころから、将来町奉行所で働くために勉強していました。
平八郎が大坂町奉行所で働き始めたのは、彼が10代のときです。
このときはまだ年齢が若かったことから、正式な与力ではなく見習いとしてでした。
不正を次々に摘発!正義感が強い大塩平八郎の性格
同僚の汚職を告発
大塩平八郎は若いころから大坂町奉行所でさまざまな活躍をします。
その中でも特に彼の名声を大きく広めたのは、与力として働いている同僚の不正を告白したことです。
平八郎が働いていたのは大坂東町奉行所でしたが、大坂には西町奉行所もあり、そこで働いていた弓削新右衛門という人物が職務上不正なことをしていることを、平八郎は知りました。
彼と一緒に働いていた西町奉行所の与力は、新右衛門の不正を知っていても、見て見ぬふりをしていたのですが、与力という立派な仕事をしているのに不正をおこなっている新右衛門が許せなかった平八郎は、同じ与力の身分でありながら彼の悪事を告発します。
その他にも平八郎は、当時日本で禁止されていたキリシタンの摘発や、戒律を破った僧侶の摘発なども多くおこないました。
大塩平八郎の周囲からの評判
平八郎は人よりも正義感が強かったために、彼のことを嫌っている人も周りにはいたのですが、彼の上司であった当時の東町奉行である高井実徳(たかいさねのり)は、彼のことを強く信頼していました。
大塩平八郎は大坂町奉行所の与力として自分の仕事に精を出す一方で、自分を磨く努力をすることも怠りませんでした。
大塩平八郎の陽明学者としての顔
彼は自分の力で陽明学を勉強し、自宅で「洗心洞」という塾を開きます。
平八郎はその後大坂町奉行所の与力の仕事をやめて、洗心洞で弟子に陽明学を教えることを本業にしました。
このとき平八郎はまだ30代になったばかりでした。
彼には実の子供はいませんでしたが、格之助という養子がいたので、与力の仕事は彼に継がせることになりました。
まだ若いにも関わらず大坂町奉行所をやめる決意をしたのは、彼と親しかった町奉行の高井実徳の職場が変わったことも理由であると考えられています。
大塩平八郎は自分の塾で多くの人に陽明学の良さを広めようとしました。
ですが、その当時は朱子学の方が人気があったため、朱子学を勉強した学者などから学問上の議論を挑まれることもありました。
平八郎は他人と議論をして無駄な時間を使うことを好まなかったので、知らない人が訪ねてきても会うことはほとんどありませんでした。
彼はもともと人付き合いがあまり好きではなかったので、送られてきた手紙なども返事を書くことはあまりしませんでした。
天保の大飢饉と大塩平八郎の乱
飢饉への対策
そのような時に日本で発生したのが天保の大飢饉です。
江戸時代には何回も非常に大規模な飢饉が発生しましたが、天保の大飢饉でも全国的に多くの人が被害を受けました。
平八郎の住んでいる関西地方でも、大規模な天保の大飢饉の被害が発生しています。
天保の大飢饉は2回にわたって発生し、1度目の飢饉が発生したのは天保4(1833)年からでした。
このとき平八郎は、大坂町奉行所に協力して被害の拡大を防ぎ、飢饉を何とか乗り越えることができました。
大塩平八郎の乱はなぜ起きたのか?
1836年から発生した2度目の飢饉。
大坂町奉行所の奉行が前回の時と別の人間になっていたため、前回のように効果的な飢饉対策をすることができませんでした。
そのために関西地方では多くの人が飢饉の被害を受けて、特に京都では多くの人が餓死したため、人々を救うために大塩平八郎は、当時の米商人に協力を求めました。
ですが結果として協力は得られなかったので、このまま何もしなければ餓死者が増えることを恐れた平八郎は実力行使をすることを決断しました。
彼はお米を食べることができなくて苦しんでいる人がいるのに、蓄えているお米を出そうとしない奉行所や商人に対して武装蜂起を実行します。
この蜂起はたったの1日だけで鎮圧されました。
暴力で物事を解決することは平八郎も望んでいなかったと思いますが、飢え死にしている人たちを見過ごせなかったのでしょう。
平八郎は、正義感が強い優しい人ですね。
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