お城巡りをしていたらファンになってしまった戦国武将「藤堂高虎」について
私は日本のお城が好きで、現存天守12城をはじめとする百名城すべてを訪問すべくたまに旅をしています。
何年か前に12天守の一つである宇和島城(愛媛県宇和島市)を訪れた際、その宇和島城はあまりにも美しく魅力的で、気づけば城主であった藤堂高虎のことまでしっかり調べていました!
戦国三大築城名人の一人としてお城ファンには有名な藤堂高虎の名は元々知っていましたが、その人物像を学ぶうちにすっかりファンになってしまいました。
藤堂高虎の生涯
生まれ
藤堂高虎は弘治2年(1556年)に近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)に藤堂虎高の次男として生まれ、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
貧しい家の生まれから伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主と戦国の乱世を駆け上り、晩年には徳川家康に仕え75年の生涯に幕を閉じます。
藤堂高虎の身長は190㎝!?7度も主君を変えた築城名人
そんな藤堂高虎ですが、身長6尺2寸(約190センチメートル)の大男。
7度も主君を変え、そして前述した通り黒田孝高や加藤清正と並ぶ戦国三大築城名人の一人と称されるとてもユニークな人物でもあります。
まず、身長6尺2寸の大男というということにびっくりです。
約190センチメートルということなので、現代ではメジャーリーガーの大谷翔平さん並みの体格を想像してしまいます。
戦国時代の日本人男性の平均身長は155センチメートルだったそうなので、当時の環境で藤堂高虎が本当に6尺2寸もあったかどうかわかりません…>_<
が、『高山公実録』所収の『玉置覚書』という書物によると、藤堂高虎は幼い頃から大食漢で人並外れた体格だったそうです。
また、ちょっとやそっとの怪我で痛がることもなく、大柄でかなりタフな人物であったことは間違いないかもしれません。
藤堂高虎の主君遍歴
藤堂高虎は主家を6回変えたというのもけっこう稀な戦国武将ではないでしょうか。
思い浮かぶとすれば、水野勝成(徳川家康のいとこ)も次々に仕官先を変えていましたよね。
1、浅井長政
藤堂高虎の最初の主君は浅井長政(あざいながまさ)でした。
15歳の頃から仕え、「姉川の戦い」で初陣ながらいきなり功績をあげたようです。
ところが、天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井長政が織田信長に大敗してしまった際に藤堂高虎は浅井長政を見限りました。
2、阿閉貞征(あつじさだゆき)
その後、藤堂高虎は同じく浅井氏を見限り織田氏に寝返った「阿閉貞征」に仕えることになります。
3、磯野員昌・4、織田信澄
それからも高虎は磯野員昌、織田信長の甥「織田信澄」といった具合に短期間で4人も主君を変える結果になりました。
この時点で、豊臣秀吉に仕え最後の最後まで豊臣家を支えた石田三成と比べると正反対な人生を歩んでますね。
だけど当時の藤堂高虎は流浪のような生活をしていたそうで、それゆえに自分が目指す指標も変わっていったのかもしれません。
そして天正4年(1576年)に藤堂高虎は人生を変える5人目の主君と出会います。
5、豊臣(羽柴)家・秀長、秀保、秀吉、秀頼
それが豊臣秀吉の弟である「豊臣(羽柴)秀長」でした。
豊臣秀長が織田信長に従軍したため藤堂高虎は「高松城の戦い」などの「中国攻め」に参陣、その後織田信長の死により、豊臣秀吉が天下を取るまでの重要な戦いにも従軍することになります。
築城名人と呼ばれるまでに
武将として功績をあげた藤堂高虎は紀伊国粉河(現在の和歌山県紀の川市内)に5,000石を与えられます。
そして、ここで携わった「猿岡山城」の改築と「和歌山城」の築城でのちの戦国三大築城名人と呼ばれる才能が開花したようです。
ところが、なんだかんだで藤堂高虎の人生もやっと落ち着いたと思った天正19年(1591年)、主君の豊臣秀長が病でこの世を去ります。
そのまま「豊臣秀保(豊臣秀長の養子)」に仕えたものの、秀保も4年後に亡くなります。
その後、しばらくの間高虎は高野山に出家していましたが、豊臣秀吉に呼び戻されます。
ここで伊予国板島(現在の愛媛県宇和島市)にて、7万石の大名の地位を与えられ、そして宇和島城主となりました。
築城名人と呼ばる藤堂高虎の才能はこの宇和島城にもたくさん隠れています。
宇和島城は元々鎌倉時代に造られたお城だったようですが、藤堂高虎の手によって改築されました。
当時最先端の石垣造りの天守台をもつ層塔型天守の宇和島城は、空から見ると不等辺の5角形をしています。
これは敵に四角形の城だと錯覚させ、死角をつくる構造になっているようです。
一説によるとこれには徳川幕府の隠密でさえも錯覚したほどだそうです。
話はそれてしまいましたが、豊臣秀吉に仕えていた藤堂高虎は秀吉の死後、秀頼に仕えます。
6、徳川家。関ヶ原の戦いでは東軍に味方する
ところがその後の関ヶ原の戦いでは高虎はあっさり東軍(徳川家康側)についてしまいました。
秀吉が存命の頃から藤堂高虎は家康と親交があったようで、弟の藤堂正高を人質として江戸に送るなど、少しずつ徳川家への忠誠を示していました。
小早川秀秋をはじめ多くの家臣たちが家康側に寝返ったこともあり、関ヶ原の戦いは結果東軍の勝利。
藤堂高虎はそのまま最後の主君となる徳川氏に仕え75年の生涯を終えます。
最初に「身長6尺2寸の大男であり、幾度も主君を変え、黒田孝高や加藤清正と並ぶ戦国三大築城名人の一人というユニークな人物」と書きましたが、藤堂高虎は晩年、天下人となった徳川家康に大層信頼されていたようです。
おそらく実際のところは、聡明な頭脳を持ち、アイデアマンで、人間性にも深みのある武将であったのではないかと私は思います。
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