聖徳太子は、生前の名を厩戸皇子(うまやどのみこ)といいます。
6~7世紀の日本で、推古天皇の摂政として活躍。
天皇を中心とする国家の形成を進めたり、仏教の浸透に努めた日本史の中でも有名かつ人気のある人ですね。
聖徳太子の伝説エピソード
10人の話を一度に聞くことができた、冠位十七階の制度を作った、法隆寺を建立したなど多くの立派な逸話を持っており、大変優秀な人物であっただろうことが伺われますね✨
一方で、かつては一万円札の肖像になったにもかかわらず採用された肖像が別人のものである可能性が高かったり、子孫が全て元の協力者である蘇我氏によって滅ぼされるなど、歴史ミステリーとも言うべき謎に満ちた、不思議な人物でもあります。
聖徳太子の生まれ
聖徳太子は用明天皇とその異母妹穴穂部間人皇女の間に生まれました。
母である間人皇女が馬小屋の前で産気づき、そこで生まれたというエピソードから「厩戸皇子」と呼ばれたと言います。
厩戸皇子は幼いときから大変聡明で、当時はまだ主流ではなかった仏教にも詳しく信心深い人でした。
跡目争い
父である用明天皇は即位後2年で崩御しましたが、その跡を巡って親族間での抗争がおこります。
その際、親戚筋である蘇我氏と、対立する物部氏が仏教の扱いをめぐって戦争になりました。
厩戸皇子は仏教擁護の蘇我氏側で参戦。
このときに味方の劣勢をみて仏に祈ると、仏の加護により勝利を収めることができたと言うエピソードも残っています。
仏教を擁護し大規模寺院を建立したことから後世で神格化されている厩戸皇子ですが、史実に沿って行動を追ってみるとなかなかの策略家です。
決して清廉潔白なだけでない、優秀な政治家としての側面も見られ、とても魅力的な人物です。
物部氏との戦いののち、蘇我氏は崇峻天皇を擁立しました。
ところが政治の実権を蘇我氏に握られることを良しとしなかった崇峻天皇は、やがて蘇我氏の総領である蘇我馬子と対立を深めます。
初めての女性!推古天皇の摂政を務める
結果、崇峻天皇は暗殺され、蘇我氏と濃い血縁関係がある推古天皇が日本初の女性天皇として即位するのです。
女帝推古天皇の摂政として、厩戸皇子は政治の表舞台で活躍します。
天皇の補佐として、能力のある人を登用できる制度「冠位十二階」を策定したり、「十七条の憲法」を制定するなど、天皇に権威と実権を持たせる仕組みづくりを進めていきます。
ここで注目したいのは、有力な後ろ盾である蘇我氏の影響を最低限に抑え、天皇家が持つ権力を最大化する制度ということです。
これらの制度の制定により、蘇我氏の政治における発言力は抑制されます。
自分が天皇に即位するのではなく、天皇の補佐として権力を天皇家に集中させるというのはただの聖人には思いつけないことではないでしょうか。
聖徳太子と仏教
古い時代には、宗教と政治の結びつきは強いものでした。
人々の信仰心をうまくコントロールすることで、権力を持つ人たちへの帰属意識を強めることができたのです。
それを知っていた厩戸皇子は、仏教を上手に使いました。
もちろん仏教に帰依する気持ちがあってのことだと思いますが、法隆寺や四天王寺、斑鳩寺など今に残る大寺院を建立するなどして、天皇の権威と仏教の力を大衆に知らしめています。
厩戸皇子は仏教に関するいくつもの著作を著した他、多くの功績から人々に慕われました。
厩戸皇子本人を神格化して信仰の対象とする、太子信仰も生まれたほどです。
後世に浄土信仰が盛んになった時には、浄土に導いてくれる人として太子信仰が盛り上がったといいます。
聖徳太子は実在しない!?
後世には聖徳太子と呼ばれるようになりましたが、歴史研究が進む中で、実在を疑う学説が生まれるなど、教科書上の扱いが二転三転しているという知名度に対して不思議な立ち位置の人物でもあります。
聖徳太子の政治背景についても論は二分されています。
あくまで有力豪族である蘇我氏主導だったとするものと、天皇家への集権を目指す聖徳太子主導であったとする説があります。
また先に述べたように本当は存在していなかったと言う説が出るなど、いろいろな学説が出ているそうです。
飛鳥時代という文献もそれなりに残された時代にもかかわらず、こうした議論が長年にわたって起きているのも聖徳太子の魅力と残した功績の大きさの表れではないでしょうか。
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