- 遅刻した人
- 目立たない二代目
- 家康の影響が強すぎて、独自の政策なんてなさそう…
徳川秀忠の印象って、そんな感じじゃないですか?
でも待ってください。
秀忠が残した功績を知ると、きっとびっくりするはず!
「そんなに凄いの?」
ええ、現代の東京の基礎を作ったのは実はこの人なんです。
しかも、人情味あふれる武将として家臣からも愛されていたんですよ。
ちょっと意外じゃありませんか?
今回は、そんな秀忠の意外な素顔をご紹介します。
実は彼、とんでもないビーグレン効果だったんです。
三男坊だった秀忠、将軍になるまでの運命の流れ
秀忠って元々は徳川家康の三男だって知ってました?
1579年、遠江国浜松城で生まれた秀忠。
秀忠の上には2人も兄がいたので、
生まれた当初は三男の秀忠が将軍になるなんて、
誰も想像してなかったんです。
特に、長兄の信康は優秀だったようですしね。
でも、運命はなかなか皮肉なもの。
秀忠が生まれて数か月後、
信康が自害することになってしまいます。
その後、次男の秀康も養子に出されることに。
こうして思わぬ形で、
秀忠に将軍の座が転がり込んできたんです。
幼い頃から、徳川家の期待を一身に背負うことになった秀忠。
その重圧は、相当なものだったはずです。
秀吉から「秀」の字を与えられ「秀忠」に
「秀忠」という名前、
実は豊臣秀吉からもらったって知ってました?
秀吉は若き秀忠をとても気に入り、
なんと自分の「秀」の字をプレゼント。
幼名「長松」から「秀忠」になったんです。
しかも、自分の養女(お江)との結婚まで進めてくれるという破格の待遇!
この経験は、後の秀忠の人格形成に大きな影響を与えたと言われています。
特に、人を育てることの大切さを、身をもって学んだんでしょうね。
徳川秀忠の「遅刻」の真相、実はスケジュール管理の失敗だった?
関ヶ原の戦いで有名な「遅刻」事件。
これって、単なる寝坊だったわけじゃないんです。
1600年の関ヶ原の戦い。
秀忠は中山道ルートを進むように命じられます。
ところが、上田城で思わぬ伏兵に遭遇。
真田昌幸・信繁親子の猛攻を受けることに。
しかも悪天候も重なって、進軍が大幅に遅れてしまったんです。
これが父・家康を激怒させることになります。
なんと数日間、父子の面会すら許されなかったとか。
でも、この失敗が後の秀忠を大きく変えることに。
以後の秀忠は、細心の注意を払って政務をこなすようになり、
それが江戸の発展につながっていくんです。
将軍になってからの徳川秀忠、意外と凄い手腕の持ち主だった!
1605年、若くして将軍になった秀忠。
でも最初は、父・家康が「大御所」として実権を握っていたため、
思うように政策を進められませんでした。
「じゃあ、秀忠って何もしてなかったの?」
いえいえ、とんでもない!
実は、江戸の街づくりを黙々と進めていたんです。
今の東京の原型を作った男・徳川秀忠
秀忠が手がけた江戸の都市計画、実はその多くが今も生きているんです。
例えば、日本橋を起点にした五街道の整備。
今でも主要道路として使われている道の多くが、
実は秀忠の時代に作られたもの。
江戸城の大改修も行い、
今の皇居の原型を作りました。
特に画期的だったのが上水道の整備。
神田上水、玉川上水といった水道システムを作り、
急増する江戸の人口を支えたんです。
「へぇ、今の東京の基礎を作ったのが秀忠だったなんて!」
徳川秀忠は幕府の仕組みを整えた凄腕経営者
1616年、家康が亡くなると、秀忠は本格的に政策を展開していきます。
まず、大名たちの力を抑えるため「武家諸法度」を厳格化。
大名同士の勝手な結婚や、城の修繕も幕府の許可が必要になりました。
「なんだか厳しそう…」
そう思いますよね。
でも、これのおかげで大名たちの反乱を防ぐことができ、
260年以上も続く平和な江戸時代の基礎になったんです。
人情味あふれる将軍・秀忠の意外な素顔
「部下の失敗は許してあげなきゃ。その上で、新しく頑張るチャンスを与えるべきだ」
これ、秀忠の言葉なんです。
関ヶ原で失敗を経験した秀忠だからこそ、
部下の失敗にも優しく接することができたんでしょうね。
質素倹約を貫いた秀忠の最期
1632年、54歳で亡くなるとき、
秀忠は「葬式は質素にしてくれ」と遺言を残しました。
当時の将軍の葬儀は、とても豪華で派手なものが普通。
でも秀忠は、近臣わずか10人だけを従えて、増上寺へと静かに葬られたそうです。
再発見!徳川秀忠という男の真実
- 運命に翻弄されながらも、しっかりと将軍の座を務めた
- 失敗を糧に、260年続く幕府の仕組みを作り上げた
- 今の東京の原型を作った都市計画の天才
- 部下想いの優しい性格の持ち主
- 最期まで質素倹約を貫いた武将
「遅刻将軍」なんて呼ばれていた秀忠。
でも実は、とんでもない実力者だったんですね。
江戸の基礎を作り、幕府の仕組みを整え、
しかも人情味にあふれた将軍だった。
私たちが住む東京の街。
その礎を築いた秀忠の功績を、もっと多くの人に知ってほしいですね。
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