神の子と呼ばれた天草四郎、その生涯について紹介いたします。
天草四郎は1621年に天草諸島の大矢野島(長崎という説もあり)に生まれました。
高い教養とカリスマ性を持った天草四郎は「神の子」と呼ばれ、歴史上最大規模の一揆「島原の乱」で16歳ながら総大将に選ばれます。
戦いの末に討たれた天草四郎は17歳という短い生涯に幕を閉じました。
天草四郎が「神の子」と呼ばれるキッカケになった予言とは?
天草四郎が神の子と呼ばれるキッカケになったのが宣教師ママコスの予言です。
1596年豊臣秀吉によってキリスト教を禁ずる「禁教令」が出されます。
後に天草四郎が生まれる地である天草ではキリスト教の農民が多く、天草の大名もキリスト教だったため、皆が信仰を続けていました。
しかし1612年に「慶長の禁教令」が出されキリスト教の弾圧がより強くなり、農民の不安が高まりました。
そこから2年後の1614年、天草の地を訪れた宣教師ママコスが
「25年後に天変地異が起こって人類は滅亡の危機に晒される。しかしその時、天人に扮する16歳の少年がキリストの教えに帰依する者達を救う」
という予言を残します。
これが後に生まれる天草四郎が神の子と呼ばれるキッカケになる予言です。
過酷な年貢による民の不満
1614年松倉重信が島原を納めるようになるのですが、ここから天草の人々は苦しめられるようになります。
松倉は天草にあった城を壊すと新たに城の建設と過酷な年貢の取り立てを行います。
年貢を納められなかった者には指を切り落とすなど惨い拷問が行われ、多くの農民が命を落とします。
天草四郎の誕生
人々が苦しむ中、1621年天草四郎が生まれます。
裕福な家庭で生まれた天草四郎は教養に優れ、カリスマ性に溢れており、ママコスの予言の時期に合致することから「神の子」と呼ばれるようになりました。
島原の乱の始まり
1630年松倉重信が死亡すると後任として松倉勝家が天草を納めることになります。
松倉重信の死を受け農民たちは年貢の取り立てが緩くなると考えました。
しかし松倉勝家はさらに年貢の取り立てをきつくしました。
天候不良により作物が不作になり飢餓に苦しむ年でも年貢を取り立てたのです。
それにより不満が高まった農民たちは一揆を計画します。
その一揆の総大将に選ばれたのが当時16歳の天草四郎です。
1637年天草四郎は農民だけでなく島原藩から離反した武士による37000人の勢力を率いて島原の乱を始めます。
島原の乱|天草四郎の最期
天草たちはまず代官所を襲撃し、代官を討ちます。
その後島原城下に火を放ち、食料などを奪います。
進軍を続ける天草たちは各地で勝利をおさめ、遂には幕府の総大将である板倉重昌を倒しました。
その後も戦地で勝利を納める天草たちですが、12万人の討伐隊に囲まれてしまいます。
そこから天草たちは城に籠っての籠城戦を行います。
なかなか降伏しない天草たちに対し、幕府たちは戦略を変え相手の食料補給線を破壊し兵糧攻めを決行します。
さらには捕らえた天草の家族を人質にし、降伏を迫ります。
なおも抵抗を続ける天草たちでしたが、食糧不足から次第に追い込まれていきます。
そして1638年4月12日ついに幕府の総攻撃を受け、落城しました。
この兵糧攻めは非常に有効で、反乱軍の胃を開くと海藻しか入っていませんでした。
結果、反乱軍はほぼ全滅し天草四郎は討たれ、17歳という若さでこの世を去りました。
その後
天草たちの一揆は全滅という結果で終わってしまいましたが、この戦いは決して無駄ではありませんでした。
戦いのあと松倉家の屋敷からキリスト教徒の遺体が見つかり、松倉勝家は幕府から追求を受けることになります。
その結果、勝家が行った数々の拷問や悪行が明るみになり、今回の反乱を招いた罪で斬首の刑となりました。
この江戸時代254年の歴史において、大名で切腹が許されず斬首の刑となったのは松倉勝家ただ1人だけでした。
負けて命を落としはしましたが、全てが無駄だったわけではないと知れて少し安心しました。
まとめ
今回は神の子と呼ばれていた天草四郎の生涯についてまとめました。
17年という短い人生の中でこれだけの逸話を残した天草四郎。
もしその先の時代に生きていたらどれだけの事を成し遂げていたのでしょうか。
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