子どもの頃、里中満智子先生が描いた漫画「天上の虹」を読みました。
私が初めて歴史に触れた物語で、とても思い入れがあります。
この漫画に出てくる主人公が持統天皇でした。
持統天皇の歌は小倉百人一首にも収められている
また、「春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣干すてふ 天香山」という句を詠んでいます。
小倉百人一首に取り入れられている有名な句です。
高校時代に百人一首を覚えさせられたときは、思い入れのある持統天皇の句ということで1番に暗記した記憶があります。
持統天皇の生涯
飛鳥時代の645年に天皇の娘として生まれる
645年に誕生した彼女の幼少期、持統天皇になる前の名前は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)と言います。
両親は天智天皇(この方も百人一首に取り入れられています「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」)と遠知娘(おちのいらつめ)。
きょうだいは大田皇女(おおたのひめみこ)という姉が1人いました。
母は早逝したと言われています。
13歳で叔父の大海人皇子に嫁す
鸕野讚良は、叔父である大海人皇子(後の天武天皇)に嫁ぎます。
このとき彼女は13歳であったと言います。
また、姉である大田皇女も彼に嫁いています。
父から見れば弟に姉妹を嫁がせたのかと思うと、今では考えられない時代だなと感じます。
その後、鸕野讚良は一人息子、草壁皇子を産みます。
さらに姉の大田皇女が早逝し、彼女が大海人皇子にとっての第一夫人となります。
671年の壬申の乱で勝利。夫が天武天皇に即位
671年、壬申の乱が勃発し、この戦いに勝利した大海人皇子は即位し、天武天皇となりました。
鸕野讚良皇女は天皇の妻として皇后となり政務を行うことになりました。
甥、大津皇子の謀反
草壁皇子は皇太子になり、次期天皇になる予定でした。
しかし、ここで反旗を翻したのが姉である大田皇女の息子、大津皇子でした。
もし、大田皇女が早逝していなければ、第一夫人は彼女であり、その息子である大津皇子が皇太子となるはずだったからです。
大津皇子はその後、自害しています。
持統天皇が草壁皇子を天皇にするために謀反を促したなどの説もあります…。
甥から謀反を受ける気持ちはどのようなものだっただろうか、と想像すると辛い気持ちになります。
実際はどうだったかわかりません。
壬申の乱もそうでしたが、血のつながった親戚同士で血みどろの争いを繰り広げるなんて、なんという時代だと感じます。
そして、この時代にはたびたび起こることで、彼女の息子である草壁皇子が若くして亡くなります。
一人息子に先立たれる心境は想像を絶しますね。
女性では3人目、持統天皇の誕生
草壁皇子には息子がいましたが、まだ子どもであったため、ここで鸕野讚良が天皇として即位することになりました。持統天皇の誕生です。
持統天皇は女性天皇の3人目になります。
現代では女性天皇の即位はどうなんだ、という議論がなされることもありましたが、この時代にはあくまで中継ぎとしてではありますが女性が天皇に即位することはたびたびありました。
ただ、現代は近親での結婚はなく、制度などが当時とは違っているのかと思います。
持統天皇は、飛鳥浄御原令という法律を施行したり、都を藤原京にしたりなどしました。
孫に譲位。文武天皇の誕生
草壁皇子の息子(軽皇子)が成長するのを待って、彼に譲位しました。
文武天皇の誕生です。
とはいえ、まだ彼には経験がなく幼くあったため、持統天皇は引き続き上皇として政務を行なっていくこととなります。
702年、持統天皇は病のため崩御します。
彼女はその後、火葬されて天武天皇と同じお墓に祀られました。
彼女の孫は文武天皇と女性である元正天皇。
さらに文武天皇の息子、聖武天皇(大仏を作った有名な天皇)と流れが続いていくことになります。
持統天皇は女性でありながら天皇に即位し、現代まで伝え続けられる和歌を残し、とても聡明な人物だったんだなと思います(私が読んだ漫画の影響もあると思いますが)。
当時の親戚関係での血みどろの争いや、自身の息子に先立たれること、病多き時代を生き抜いた彼女の生涯に感動します。
最後は夫である天武天皇と同じところで眠り、穏やかに天国で過ごされていることでしょう。
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