今から約1500年前、当時の飛鳥・奈良時代にあたる日本。
大陸を統一した超大国である隋や(現在の中国)や百済諸国(現在の韓国、北朝鮮)との交流を積極的に進めた影響で、政治や文化の形が大きく変化し、中央集権国家や仏教文化といった海外の政策や文化が日本に現れた激動の時代でした。
その中で、推古天皇は日本史上初の女性の天皇として即位し、日本を他の国に負けないくらい政治や文化が発展している国へと育て上げました。
激動の時代を初の女性天皇として生き抜いた推古天皇の生涯や行った事業について解説します!
推古天皇の生涯①誕生~結婚まで
推古天皇は554年に欽明天皇と蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ・蘇我馬子の姉)の娘として誕生しました。
諱は額田部(ぬかたべ)王です。
成長後に異母兄の渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妃となりました。
そして、当時の皇后であった広姫が亡くなった後の576年に皇后の地位に就きました。
推古天皇の生涯②日本史上初の女帝
敏達天皇の死後は用明天皇が即位しましたが、わずが2年でその治世は終わってしまいました。
そして後継者の候補のうちの一人であった穴穂部皇子(あなほべのみこ)が暗殺され、後を継いだ崇峻天皇も蘇我馬子をはじめとした蘇我氏と対立し、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒 (やまとのあやのあたいこま)によって592年に暗殺されました。
このことを受けた群臣に推薦され、叔父である蘇我馬子と関係が密であり、39歳と若過ぎない年齢であった額田部皇女は天皇として593年に即位しました。
推古天皇がしたこと。超大国、隋の政策を吸収!日本の政治をつくる
推古天皇は奈良県高市郡明日香村の豊浦宮(後の豊浦寺)や小墾田宮で政治を行い、叔父である蘇我馬子と甥で摂政の地位にある厩戸皇子(聖徳太子)が中心となって支えました。
推古天皇が行ったこととして以下のことが挙げられるでしょう。
1、国家づくりを意識
特に厩戸皇子によって作られた、冠や衣服の色によって地位を示す冠位十二階や役人として守るべき道徳をまとめた憲法一七条という制度は、日本の政治において、天皇に権力を集中させた国家づくりを意識して製作されたものでした。
また、『天皇記』や『国記』を編纂し、国づくりの歴史を記録しました。
そして官司制の整備・壬生部の設置をはじめとした皇室経済の基盤整備など政治・経済の両方において刷新が進められました。
2、遣隋使
西暦600年以降、幾度にも渡って小野妹子や犬上御田鍬、高向玄理、南淵請安、僧旻らを中心とした遣隋使を派遣しました。
そして隋と国交を結ぶとともに、国政や文化を学び、日本の政治や文化に反映させることに力を尽くしました。
仏教文化など海外の文化の推進にも力を入れており、蘇我馬子や厩戸皇子が創建した奈良県高市郡明日香村の飛鳥寺や、大阪府大阪市の四天王寺の建立にも深く関わりました。
3、仏教の隆盛
飛鳥寺は日本ではじめて創建された本格的な寺院であり、海外の文化を取り入れた最先端の文化・宗教施設でした。
発掘調査によって朝鮮半島や中国の文化が屋根瓦、伽藍配置(寺域内の建物の配置)に反映されていることが明らかにされています。
四天王寺も日本最古級の寺院であり、百済諸国を中心とした海外の文化が、屋根瓦や伽藍配置に反映されていることが調査によって明らかにされています。
推古天皇が眠る古墳
推古天皇の治世は30年以上続きました。
そして、亡くなる前に後継争いを憂い、田村皇子(後の舒明天皇)と山背大兄王(厩戸皇子)に自重するよう遺言を遺しました。
また、息子の竹田皇子とともに埋葬するようにとも命じました。
死後、奈良県橿原市に位置し、植山古墳に、推古天皇の遺言通り息子である竹田皇子と共に埋葬されました。
そして後に現在の大阪府南河内郡太子町の推古天皇陵(推古天皇が埋葬された古墳)に改葬されました。
推古天皇陵は天皇のお墓として宮内庁が管理しているため、内部の発掘調査は行われていません。
しかし、植山古墳と同じく、1つの墳丘に2つの石室を持つ長方墳であると考えられています。
おわりに〜推古天皇の魅力〜
推古天皇は日本史上初の女性の天皇であり、当時の権力争いに屈することなく海外諸国の国づくりから日本を育て上げたい女傑であると言えます。
推古天皇の毅然とした生き方に憧れます✨
今の私たちの生き方を考えさせられるものですね。
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