石川五右衛門の名前を初めて耳にしたのは、私がまだ3つか4つの頃だったと記憶しています。
それは風呂の名前でした。
母の生家は福島の山の上に建っていて、離れには釜風呂があります。
初めてこの風呂を見る人はいったいどうやって湯に浸かればいいのか分からないのではないでしょうか。
五右衛門風呂の由来は?
釜風呂の入り方は特殊です。
蓋を開けると簀があり、これを釜の底に沈めて入ります。
大人たちはそれを五右衛門風呂と呼んでいました。
どうして五右衛門なのか、そのわけを訊ねると、「昔、石川五右衛門という大泥棒がいて、捕まって釜茹での刑にされたからだよ」と、教えてくれました。
以来、この人物の名前は私の脳裏に焼き付いてしまったのです。
実在した『大泥棒』石川五右衛門
大泥棒という言葉に興味を持ち出したのは、子どもの頃で、当時人気だったテレビアニメ『ルパン三世』の影響もあったのでしょう。
この作品にも石川五ェ門というキャラクターが登場していました。
しかし、それは私がイメージしていた人物とはかなり違っていました。
また、小学校の高学年にもなると、読み物にも手を出すようになり、江戸川乱歩の小説なども好んで読むようになったのです。
その中で怪人二十面相というキャラクターにも興味を持ちました。
加えて江戸時代の鼠小僧次郎吉などを知るようになり、ますます盗賊への興味が深まったわけですが、それはけっして憧れというものではなく、どちらかと言えばその時代に出現した背景などを知りたかったのかもしれません。
どうして盗みをしなければならなかったのか、そしていったいどのようにして盗みは行われたのか、そうした疑問を持って資料を探ることもけっこう好きでした。
ただ残念なことに、石川五右衛門に関してはあまりにも資料が少なく、また残されている資料も実にさまざまな情報が錯綜しています。
石川五右衛門の人となり
定説によれば石川五右衛門は安土桃山時代の人で、当時では悪名高い盗賊のお頭であったとされています。
弘治4年(1558年)に生まれ、徒党を組んであらゆる悪事を働きました。
彼らが狙ったのは主に大名屋敷です。
盗人のほか追い剥ぎやスリなどもしていました。
石川五右衛門の最期
この盗賊団を捕まえたのが、時の為政者であった豊臣秀吉の命を受けた手勢で、盗賊団は京都の三条橋間の川原で処刑されたと資料にはあります。
極刑
文禄3年(1594年)の出来事でした。
数十人は磔の刑にされ、一人は市中引き回しの上、大釜で煎られるというものだったそうです。
現存する資料から探れば、その人物こそがどうやら石川五右衛門なのではないかと推測されるようになりました。
ただ刑はそれだけではなく、五右衛門の親族に至るまで根絶やしにされました。
子どもまで容赦なく罰せられたという残虐さは、当時としては当然の罰だったのでしょう。
五右衛門の墓
こうした処刑はイエズス会の宣教師の日記にも記されています。
大釜で煎られた五右衛門の亡骸は、京都の大雲院という寺に葬られました。
この五右衛門の死は江戸時代にさまざまな作者によって物語にされ、今に残されています。
小さい時分から回りから恐れられていた石川五右衛門は、子分を多く持っていたということです。
今で言うところのガキ大将だったのでしょうか。
素行も悪く、常に大人たちから疎まれていました。
こうした性格が後の盗賊団のお頭となる資質となっていったのでしょう。
また、盗みに関しては天性の才があったとされています。
司馬遼太郎『梟の城』の石川五右衛門
司馬遼太郎の『梟の城』は、第42回直木賞に輝いた作品です。
戦国時代に暗躍した忍の生きざまが生々しく描かれています。
私はこの忍に関しても大変に興味があり、フィクションやノンフィクションを問わず、小説を読むのが好きです。
この司馬遼太郎の作品の中に石川五右衛門らしき人物が描かれていることを知り、心が浮き立つ思いでした。
数少ない資料の中から石川五右衛門の生涯を紐解くことは不可能に近いことなのかもしれません。
司馬遼太郎の作品は完全にノンフィクションだとは言えないまでも、もしかしたらその可能性もあるのではないかと思います。
盗みをするにもやはり特殊な技術が必要です。
江戸時代に名を轟かせたあの鼠小僧次郎吉が鳶職人であったことを考えれば、石川五右衛門が忍であったという仮説には十分に頷けますね。
コメント