私が好きな日本の歴史上の人物の一人、金栗四三(かなくりしそう)。
聞いたことのない名前だと思うかもしれませんが、彼は実は箱根駅伝の立役者です。
また、大阪の有名なグリコの看板のモデルの一人であり、日本初のオリンピックのマラソン選手でもあるというすごい人なのです。
それなのに、彼の名前は日本の皆さんに広く浸透しているわけではありません。
この記事で彼のすばらしさをお伝えできればうれしく思います✨
金栗四三、大河ドラマで主人公に
とはいえ、彼は2019年の大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の主人公の一人になったので、知名度はグッと上がったかもしれません。
かく言う私も、大河ドラマで初めて彼を知りました。
ドラマが繰り広げられるにつれて、金栗四三に対する尊敬の念が芽生えました。
彼は明治・大正・昭和時代を文字通り走り抜けていったのです。
私は長距離走が好きなので、日本での長距離走の先駆者ともいえる彼を好きになりました。
しかも、彼がスッスッハッハと呼吸しながら走る姿や、出身の熊本の方言は少し可愛く感じられました。
金栗四三の功績
さっそく彼の功績を見ていきましょう。
まずは私の大好きな箱根駅伝からです。
箱根駅伝の開催に貢献
今では日本のお正月の代名詞として有名な箱根駅伝ですが、それにつながる大会は今とかなり違っていました。
東京に都が移ったことを記念するイベントとして開催され、それも3日間にわたるものだったのです。
箱根駅伝の立役者ということで、感の良い方はお気づきかもしれませんが、彼はランナーでした。
それも、日本初のマラソンのオリンピック選手です。
駅伝自体も、金栗が考え出したものだそうです。
日本でのマラソンやスポーツの発展を願っていた彼は、その生涯で大会開催や教育に携わっていきます。
箱根駅伝の初めての大会は1920年に開催された4つの学校の駅伝です。
早稲田、明治、慶應義塾、東京高師の学生たちが出場した第1回大会は、「四大専門学校対抗駅伝競走」という名でした。
今の箱根駅伝で出場する21校と比べると出場校の数はかなり少なく感じてしまいますが、当時もきっと盛り上がったことでしょう。
なぜゴールまでに54年?消えた金栗四三
金栗四三は日本マラソンの父とも呼ばれています。
彼は日本が初めて参加したストックホルムでのオリンピックに、マラソン選手として出場しました。
当時オリンピックに日本から参加したのは、金栗と短距離選手の三島弥彦のみ。
日本のオリンピックは彼らから始まったと言えます。
ただし、当日彼はゴールすることができませんでした。
その日は猛暑で、多くの選手が棄権するような過酷な大会だったのです。
意識がもうろうとした金栗四三は、なんと近くの家で介抱され、翌日に目を覚ますという驚きの結果となってしまいました。
そこから彼は「消えた日本人」と言われるようになってしまいました。
彼がゴールテープを切るのは、54年後のこととなります。
75歳になっていた金栗四三は、スウェーデンでのオリンピック行事に参加したところ、ストックホルムでゴールテープを切らせてもらえるという粋なはからいのおかげでやっとゴールすることができたのです。
女子スポーツの発展に尽力
金栗四三の功績として外せないのが、女子スポーツへの貢献です。
当時の日本では今よりも女子が運動をする機会は少なく、女性とスポーツが結び付きにくかったようです。
しかし、彼には女子スポーツを日本で発展させようと思うきっかけがありました。
それはドイツ遠征です。
彼はドイツに行った際に、女性も男性と同じようにスポーツをしている様子を見て驚き、日本でもぜひそのような光景を実現させたいと思ったのでしょう。
金栗四三は、女子教員を育てる専門学校であった東京府女子師範学校の教師として、学校で女子学生にテニスを教え、さらに女子テニス大会も開催しました。
自身が走るだけでなく、日本でのスポーツ発展を見据えていたのです。
このころから、女子スポーツの大会が多く開催されるようになり、日本での女子スポーツは盛んになっていったそうです。
今では男性も女性も関係なく体育の授業や部活でスポーツに親しみ、全力で取り組むことができるますね。
女子スポーツに力を入れるようになった時代があって良かったと心底思いました。
金栗四三は私の人生に欠かせない箱根駅伝、女子スポーツ、長距離走に貢献した人物です。
今一度彼の功績を見て感謝したいと思います!
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