川島芳子は(1906年~1948年)は、第二次世界大戦を語るのには避けて通れない、日中を股にかけた国際スパイです。
その美貌と外見から、彼女は「男装の麗人」として、当時の人気歌手、李香蘭と並び、庶民からも高い人気を得ました。
しかし、その生涯は波乱万丈、非業の死を遂げましたが、その死の真相も謎に満ちています。
果たして、戦場に咲いた仇花、川島芳子とは何者だったのでしょうか?
川島芳子の生涯
生まれ
芳子は1906年、清朝の皇族の14番目のプリンセスとして生を受けました。
名は愛新覚羅顯㺭(あいしんかくらけんし)。
しかし、芳子の祖国である清朝は、辛亥革命により中華民国として生まれ変わり、300年の歴史に幕を閉じました。
川島家の養女になる
顯㺭は、8歳のときに父親の側近であった日本人、川島浪速の養女になり芳子と名乗るようになります。
日本の女学生として過ごした芳子は、容姿端麗、スポーツ万能な才女として、たちまち女学生たちのあこがれの的となりました。
川島芳子はなぜ男装をするようになったのか?
しかし、そんな芳子に悲劇が襲います。
義父である浪速に乱暴されてしまったのです。
心にも体にも傷を負った芳子は、「こんなにつらい思いをしてまで女性でいたくない」と、髪を坊主にし、男性のように振る舞うようになりました。
この事件は、のちのちの芳子の恋愛観に大きな影響を及ぼします。
レイプされた直後、自殺未遂を起こしています。
よほど辛くて耐えられなかったのでしょうね…。
日本と清朝、2つの国の運命を背負った芳子には、清朝再建の野望に燃える自分と、女性としての幸せを求める自分、2つの心に揺れ動いていたのです。
川島芳子、スパイになる
昭和6年、満州事変が起こります。
日本陸軍のスパイとなった芳子に任された使命は、清朝皇后の妃、エンヨウの護衛でした。
そして、彼女は工作員としても暗躍します。
やがて、彼女は功績を認められ、3000人もの軍人を従える総司令官となりました。
1932年には、満州国が建国され、愛新覚羅溥傑が皇帝となります。
芳子の悲願は叶ったかのように見えました。
社交界の花
上海ではその美貌から、社交界の花ともてはやされ、一方、日本の国民たちは、芳子のことを「東洋のマタ・ハリ」「東洋のジャンヌ・ダルク」として、まるでアイドルのような羨望の眼差しで見るようになります。
その人気はものすごく、芳子は歌手としてレコードを出すほどでした。
彼女をモデルにした小説「男装の麗人」は大ヒットを飛ばします。
私生活は幸せではなかった
しかし、私生活は決して幸せといえるものではありませんでした。
上海事変の仕掛け人である軍人、田中隆吉の愛人となり、日々の暮らしは贅沢三昧ではありましたが、所詮は日陰の身。
彼女は虚ろな心をアヘンで埋めようとします。
年の近い李香蘭(山口淑子)のことは、おなじ、よしこという名前を持つことから、「ヨコちゃん」と呼び、妹のようにかわいがっていたそうです。
そして満州国は、所詮は日本陸軍として実権を握った関東軍が裏で糸を引く、傀儡国家でしかありません。
溥傑は、当時の日本にとって体のいいお飾りの皇帝だったのです。
そんな満州国の姿は、芳子が望んだものとはかけ離れたものでした。
芳子の心は、激しい憤りにかられ、ますます荒んでいきます。
川島芳子の最期
1937年、日中戦争が勃発。
関東軍のやり方に対して反感をあらわにする芳子は、すでに見切りをつけられていました。
芳子は関東軍から命を狙われ、そして中国からも売国奴として、命を狙われる立場になってしまいました。
1945年、日本は敗戦し満州国も崩壊します。
芳子は、中国を裏切った罪でとうとう逮捕されてしまいました。
彼女は必死で祖国のために戦ったことを主張しましたが、その訴えが聞き入れられることはありませんでした。
こうして、彼女には銃殺刑の判決がくだされます。
アヘンと絶望で身も心もボロボロになった彼女は「たとえ家があっても私は帰ることすらかなわない。涙を流しても、誰に対してこの気持ちを打ち明ければいいの」という言葉を遺しています。
川島芳子の生存説。果たして…?
こうして41年間の人生に幕を下ろした川島芳子。
ですが彼女の死後、生存説がささやかれるようになりました。
銃殺された芳子は、替え玉だというのです。
近年は、彼女の忘れ形見を名乗る女性も現われました。
果たして、その真相は…?
今もなお、時代を超えて、我々を翻弄する川島芳子。
その姿は、海を渡った悲劇のプリンセスという言葉で片づけるには、したたかで強烈です。
事実は小説より奇なりといいますが、まさに魔性の女スパイというにふさわしい人物でしょう。
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