三好長慶は『織田信長』登場以前に畿内を制覇し、戦国幕開けの覇者として君臨した人物です。
では、どんな人物だったのか紹介していきましょう。
三好長慶の生涯
三好長慶は大永2年(1522年)、阿波国三好郡(現在の徳島県三好市)に本拠地を持つ国人領主・三好元長(みよし もとなが)の嫡男として生まれました。
そして、父・元長が一向一揆および河内守護代・木沢長政との戦いに敗れ自害した後、わずか11歳で三好家の家督を継ぎます。
その後、細川晴元に仕え、離反や和睦を繰り返しながら勢力を拡大させて行き、その最盛期の支配地域は阿波・讃岐・淡路・摂津・河内・和泉・山城・大和・丹波・若狭・播磨に及びました。
しかし、弟の十河一存(そごうかずまさ)が病死すると、それを好機と見た畠山・六角連合軍との戦いですぐ下の弟三好実休(みよしじっきゅう)が敗死。
更には長慶の嫡男である三好義興(みよしよしおき)が22歳の若さで早逝。
自らも病にかかっていた長慶は、唯一残っていた実弟の安宅冬康(あたけふゆやす)をも謀殺してしまいました。
その後、病が悪化した長慶は43歳で病死しました。
三好長慶を考察
三好長慶が父を失った経緯と家督相続
長慶の父・元長は細川吉兆家の家督争いをしている細川晴元に仕え、共に細川高国と争いました。
高国は現職の管領である足利義晴(あしかがよしはる)を将軍として擁立していました。
そのため、高国側は官軍を称することができ、晴元たちは賊軍となる恐れがありました。
そこで晴元は、義晴の弟・足利義維(あしかがよしつな)を擁立して対抗します。
戦いは、元長の活躍で高国を敗死させ晴元たちの勝利となります。
ですが晴元は、それまで擁立していた義維を捨て、義晴と和睦すると義晴の管領に就こうとしたのです。
これには元長も怒り心頭でしたが、畿内の国人衆の大半は晴元の下に付いてしまいます。
田舎者の元長が大きな功績を立てていることが畿内の国人衆は許せなかったのです。
更に晴元は、一向一揆を唆して木沢長政と戦っていた元長の背後を突かせて自害へと追いやったのでした。
このとき、長慶はわずか10歳。
そして阿波国に戻った長慶は、三好家の家督を継いだのでした。
その後、長慶は晴元に赦され、晴元に仕えます。
そうです、父の仇に頭を下げて仕えたのです!
これは長慶にとって相当な屈辱だったでしょう。
ですが、三好家を潰さないために長慶はその屈辱を受け入れたのでした。
三好長慶が勢力を拡大
その後、長慶は勢力を拡大し、ついには晴元と将軍・義晴を近江に追い落とします。
管領も将軍も居なくなった京都は、長慶が治安を維持していきます。
そう、陪臣(将軍の直臣の家臣)の三好が天下を差配するまでになったのです。
畿内を中心に勢力を誇った三好家に対しては、名門・畠山家も管領代を輩出した六角家も容易に対抗することは敵いませんでした。
三好家の崩壊
しかし前述したように、権勢を誇った三好家は坂道を転がり落ちるように瓦解していきます。
理由は、長慶があくまで室町幕府の枠組みの中で権力を持とうとしたことが一因でしょう。
長慶は将軍を追放していながら、その政権には将軍を必要とするという矛盾を抱えていたのです。
この時代、長慶のように陪臣の身で将軍を傀儡とするような事は下克上として嫌われました。
特に中央意識の強い畿内では尚更でした。
畿内周辺には、室町幕府により様々な特権を許された名門が多く存在します。
そんな名門意識の強い大名にとっては、三好のような存在はとても許せるものではなかったです。
これが地方で勢力を拡大していたのであればまだ反発は少なかったのではないでしょうか。
しかし、長慶は足利家直轄の山城国を支配し、朝廷を庇護し、五畿内に覇を唱えました。
ところが、周りにとっては「三好は阿波の田舎者」という意識があります。
田舎者が畿内で天下安寧の為に頑張れば頑張る程どんどん嫌われて行き、反発が強まるだけだったのでした。
そのため、三好家が御供衆から相伴衆、陪臣から足利の直臣と家格を上げていっても細川家のように事実上の天下人として認められることは無かったのです。
三好長慶の最期
長慶は、或いは室町幕府の枠組みからの脱却を考えるべきだったのかも知れません。
しかし、そんなことは織田信長のような天才にしか考えつかないことだったのでしょう。
長慶は室町幕府という枠組みの中で藻掻き苦しみ、そして力尽きていったように思えます。
天も彼には味方しませんでした。
畠山・六角連合軍を抑えるはずの要、「鬼十河」の異名を持つ弟の病死。
これには謀殺説もあるほど、三好にとっては大打撃でした。
この鬼十河が要衝の岸和田城に居る限り、畠山は容易に攻めることは困難な筈でした。
鬼十河を失い、畠山と六角が連合して攻め込んできます。
この戦いで長慶はもう一人の弟・三好実休を失います。
更には嫡男も早逝し、自らも病に倒れます。
そして43歳の若さで無念の内に亡くなったのでした。
まとめ
三好長慶は幼いころに父を亡くし、父の仇に頭を下げるという屈辱を味わいました。
それでも、その屈辱に負けず、力を付けて仇を追いやり、天下に手をかける所までに勢力を伸ばした、正に戦国覇者の先駆者と言える武将です。
彼が打ち立てた覇権は、彼の死後脆くも瓦解してしまいますが、信長以前に畿内に圧倒的パワーで君臨した事実は無くなりません。
長慶は正しく戦国初の覇者でした。
コメント