水野勝成と言う晩年は大名となった戦国武将がいます。
彼は戦国の3英傑と称される織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えたことは勿論、豊臣家の治世の時代には、その配下の数多くの武将の元で、仕官と出奔を繰り返し、最後は実父の跡を継いで水野家の当主として大名となった経歴を持っています。
戦国時代には仕える主君を変えることはままある話。
でも、水野勝成は豊臣家の治世の時代には、その配下の大名であった仙石秀久、佐々正成、黒田孝高、小西行長、加藤清正、立花宗茂と実に多くの大名の元で、仕官と出奔を1585年からおよそ15年も繰り返しました。
この尋常ならざる放浪の中でも、実際に数々の武功を自らの手で挙げている点にも驚かされますね!
でも豊臣秀吉が1598年に薨去したため一度は統一された日本に再び戦乱の兆しが生じます。
このときにはかつての毛利家の武将であった三村親成の元に食客として身を置いていた水野勝成は、徳川家康の元へと馳せ参じ、その天下取りの一翼を担いました。
破天荒な経歴を持つ水野勝成
徳川家康のいとこである水野勝成
水野勝成の生まれは永禄7年(1564年)9月。
実父の水野忠重は、徳川家康の実母である於大の方(おだいのかた)の弟という家系です。
徳川家康はいとこに当たりますね
水野勝成の実父である忠重は元々自分からすれば甥にあたる徳川家康に仕えていました。
1572年に武田信玄が攻め寄せた三方ヶ原の戦いでは、徳川家康を逃すための囮役を担ったとの逸話も伝えられています。
真っ先に敵陣に斬り込む戦いぶり
こうした実父の忠重に従い水野勝成自身も徳川方として、1579年の武田方の高天神城攻略戦に齢16歳にして初陣を飾ります。
この初陣でこそ大きな戦果はなかった勝成でしたが、その後の戦ではとにかく真っ先に敵陣に斬り込む戦いぶりで、一番槍・一番首の栄誉を続け、その名を挙げていきました。
でもそうした勝成の戦いぶりは、実父である忠重にとっては、一軍の将としては蛮勇と感じられたのでしょう。
父に勘当される
豊臣方と織田・徳川連合軍が戦った小牧長久手の戦いに従軍した際には、眼病を理由に兜を身に着けずに戦に及んでいた勝成に対し、忠重はその理由を問わず激しい叱責を行ったとされ、2人の間には大きな溝が生じました。
やがて勝成は、忠重の家臣が自らの悪評を流布したとの理由で手打ちにしてしまい、それを以て忠重から勘当と奉公構(ほうこうかまい)の処分を下されました。
奉公構とは元の主君、この場合は実父である忠重の許しが無ければ他家への仕官を禁じるという処分であり、一介の武将に対して行われることはあっても、実の親子の間でこれが出される事は非常に珍しいものでした。
数多くの武将の元へ仕官と出奔を繰り返す
かくして水野勝成は、自身と実父である忠重が当時所属していた徳川陣営の武将の元には仕官できない状況に置かれ、対立していた豊臣方の西国武将の元を転々とする事を余儀なくされたのでした。
それが冒頭でも挙げた仙石秀久、佐々正成、黒田孝高、小西行長、加藤清正、立花宗茂といった武将たちだった訳です。
水野勝成が特殊なのは、せっかく仕官が叶っても何れも長続きせず、次々とこれらの武将らの元を渡り歩いた点でしょう。
- 水野勝成が生来持っていた我の強さに起因
- 徳川家康からの何らかの密命を受けて、あえて多くの豊臣方の武将の元を転々とした
と言うような推察すら一部では唱えられています。
父との和解。跡を継ぎ大名になる
そんな水野勝成ですが、豊臣秀吉が薨去した翌年の1599年、徳川家康の元の舞い戻り、その仲介の元で実父である忠重とも和解を果たしました。
そして当の忠重が豊臣方の策略によって翌1600年に暗殺されたため、水野勝成はその遺領である刈谷3万石を継ぎ、水野家当主として遂に徳川方の大名となりました。
以後大名となった水野勝成は関ヶ原の戦いや大阪夏の陣などの戦いに参加。
徳川家の天下取りに大きく貢献する働きを見せました。
殊に大坂夏の陣においては、敵将・明石全登を討ち、大坂城の桜門に一番乗りを果たした働きが評価され、真田信繁を討った松平忠直に次ぐ第二の戦功を挙げた武将として名を挙げました。
水野勝成の藩主としての功績
そして世が徳川幕府の治世下となると、水野勝成は先ず1615年に郡山6万石に加増・転封され、4年後の1619年には更に福山10万石に加増・転封となりました。
水野勝成はこれらの領国において治世においても能力を発揮、政にも長けていたことが伝えられています。
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