忠臣蔵といえば、何度も映画化、ドラマ化されているので日本人なら誰もが知る物語ですね。
その47人の赤穂浪士たちをまとめ上げたのが大石内蔵助(おおいしくらのすけ)です。
大石内蔵助の忠臣蔵
赤穂事件
忠臣蔵のモデルになったは元禄時代に起きた赤穂事件。
播州赤穂藩の藩主の浅野内匠頭が江戸城松の廊下において、高家の吉良上野介に斬りつけて、切腹させられた事件が基になっています。
浅野が切腹させられた後、赤穂藩は取り潰しになり、赤穂藩の武士たちは浪人となり露頭に迷うことになります。
当時は所属する藩がなくなるということは、武士として死を意味していて、現代のサラリーマンのように会社が倒産しても、転職できる時代ではなかったのです。
幕府と決戦か、それとも主君の後を追って切腹か…?
主君の切腹を受けて赤穂藩では、国家老の大石内蔵助が家臣を集めて籠城して幕府と戦うか、主君の後を追って切腹するか話し合いますが会議は紛糾し、結論は出ませんでした。
また内匠頭の弟である浅野大学を担いで浅野家再興という可能性もあったので、大石は籠城も切腹も取りやめて、抵抗せず赤穂城を明け渡すことにします。
浅野家再興のために働きかけるが…。
大石は浅野家再興のために幕府に働きかけますが、赤穂藩の家臣の中には強硬派もいて「あくまで主君の仇の吉良を打ち取るべし」と主張するのたちもいました。
特に江戸詰めのものたちは、江戸急進派と呼ばれて密に吉良を狙い襲撃しようとしますが、警戒が厳重でうまくはいきませんでした。
吉良上野介の首を討ち取ることも検討
また大石は浅野家再興がうまくいかなかったときは、同志を率いて吉良邸に討ち入り吉良上野介の首を取ることも考えていました。
当時の日本では仇討が認められており、親兄弟や主君を殺害したものは、復讐していいと幕府が認めていたからです。
幕府にバレずに吉良邸討ち入りを果たすまで
しかし何十人もの武士が徒党を組んで仇討をするなど前代未聞。
幕府にバレずに同志たちをまとめるのは大変な仕事でした。
大石内蔵助は赤穂藩の筆頭家老でしたが、性格は茫洋としていて藩ではあまり評価されておらず、はたして大勢の武士たちを率いて吉良邸討ち入りという大事業をやってのけられるのが疑問に思う者たちもいました。
しかし、大石は内に秘めたる情熱があり、癖のある部下たちが暴発しないようになだめたりすかしたりしながら、まとめあげていました。
最重要ポイントは、吉良邸討ち入り計画が幕府にもれないこと。
もし計画がバレると全てが水の泡…。
なので、本当に信頼できる同志たちを集めました。
人物を見極める大石の眼力は、やはり鋭かったですね。
しかし赤穂藩がとりつぶしにあってから、生活苦から脱落するものや血気にはやり、待ちきれず同志から抜けるものたちも続出し、大石は頭を痛めます。
さらに大石たちが吉良に危害を加えるのではと幕府も警戒しており、大石も軽はずみな行動はできないように監視されていたのです。
そのため大石は、祇園に通って女性と遊びまわり腑抜けのような姿を見せて、幕府の目をくらましたりしていました。
そんな大石の姿から見切りをつける同志たちもいて、本当に仇討をするつもりがあるのかと疑われることもあったのです。
そして主君内匠頭の弟の大学の処分が、広島藩預かりと決まったことで、浅野家再興の夢は消えます。
大石内蔵助たちは吉良邸討ち入りへと邁進していくことになります。
そこで大石の命を受けて、同志たちは次々に江戸へ入り吉良の身辺を探ったり、吉良邸の絵図面を手に入れたりして、討ち入りの準備を進めていきます。
それから12月には同志たちを集めて会議を開き、それぞれの役割や所持する武器、相言葉など決めていったのです。
ついに吉良上野介の首を打ち取る
12月15日、大石内蔵助率いる赤穂浪士47人はついに吉良邸に討ち入り、吉良家の家臣たちと死闘を繰り広げたのち、念願の吉良上野介の首を打ち取りました。
討ち入りのあと、大石たちは主君内匠頭の墓がある泉岳寺へ行き、内匠頭の墓前に吉良の首を備えて仇討の報告をしました。
赤穂浪士47名、全員切腹
そして大石たちは四大名家へのお預かりと決まり、後は裁定を待つばかりとなりました。
幕府は赤穂浪士の処分に困り、武士の鏡だから生き永らせたいという意見もありましたが、最終的には全員切腹と決まります。
こうして大石内蔵助は45年の生涯を終えたのです。
まとめ
大石は様々な意見を持つ部下たちをまとめ上げ、仇討という目的を達成するためにあらゆる辛苦にたえ、幕府に知られずについに仇討を成功させた手腕は大したものだ思います。
大石は家老の家に生まれましたが、平凡な人物だったいいます。
ですが、いざ藩が危機に陥ると内に秘めた能力を発揮し、ついには歴史に残る人物となったのです。
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