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平将門の生涯。何をした人?平将門の乱をわかりやすく解説!

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平将門

大怨霊?
それとも関東の英雄?
『平将門(たいらの まさかど)』

あまね

あなたは平将門にどんなイメージをお持ちでしょうか?

  • 日本を代表する大怨霊で怖い人?
  • 朝廷に反逆して「新皇」を自称した傲岸不遜な人物?

では、これから彼の生涯を振り返ってみましょう。

目次

平将門(903年?~940年)の生涯

平将門
平将門

将門は陸奥鎮守府将軍・平良将(たいらのよしまさ)の子として誕生します。

その後、元服と共に平安京に上り藤原忠家に12年仕えますが、父の死を契機に国元に戻りました。
しかし、帰郷した将門を待っていたのは親族内の権利争いでした。

なんと父・良将が遺した土地が伯父(父親の兄)たちに奪われていたのです。
このときは叔父(父親の弟)の援護を貰って伯父の『平国香(たいらのくにか)』を打ち破りました。

また、時を置かずに『源護(みなもとのまもる)』と『平真樹(たいらのまさき)』の領地争いが発生します。
この争いはそれぞれの娘を娶っていた将門とその伯父たちを巻き込んでいきます。

一族の大半と対立した将門でしたが、将門はこの戦いに勝利したのです。
それにより、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いたのでした。

この後も将門は関東で起こった様々な紛争の調停し、弱者の庇護を行なって行きました。

そして威光を笠に着た常陸国府と対立して逃げてきた『藤原玄明(ふじわらのはるあき)』を匿った将門は宣戦布告してきた国府軍とやむなく戦いになります。

しかし、将門はこの戦いに勝利したものの朝廷へ謀反を起こした事になってしまいました。

こうしてなし崩し的に朝廷と対立してしまった将門は側近の進言を受け、次々と関東の国府を攻略していきます。
そして、あっという間に関東一円をその手中に収めたのでした。

この報せに朝廷は直ちに討伐軍を編成します。
この討伐軍との戦いで将門は遂に討たれてしまうのでした。

将門の人柄を考察

平将門が敵兵を討ち取ったシーン
平将門が敵兵を討ち取ったシーン

将門は、桓武天皇の五世の孫になります。

坂東平氏、下向

将門の一族の坂東平氏は桓武天皇の曾孫・『高望王』が宇多天皇から“平”の姓を下賜され上総介に任命、坂東に下向したことに始まります。

未開地を開拓し勢力を伸ばす
  • 高望の長男・国香は常陸国(現在の茨城県辺り)
  • 次男・良兼は上総国(現在の千葉県中央部辺り)
  • 三男で将門の父・良将は下総国(現在の千葉県北部と茨城県南西部辺り)

平将門、伯父たちに父の所領が奪われる

将門は元服後、京に上り藤原北家の藤原忠平に仕えますが、官位は低いままだったようです。
京の都での栄達が果たせなかった将門は失意のうちに帰郷します。

しかし、そんな将門を待っていたのは伯父たちによって父の所領が奪われていたという酷い現実でした。

まあ、この時代は領地継承の仕方がきちんと定まっていた訳でもなく、領地争いは日常茶飯事だったので、この事も特段珍しい事でもなかったのかも知れません。

平一族としては他の一族に奪われるよりは同門で分け合った方が良いという考えも有ったのかもしれません。
しかし、将門が帰郷しても伯父たちは将門に領地を返還する事は無かったのです。

新たに開拓を始めるものの…

将門は仕方なく荒れ地を新たに開拓していきました。

しかし、そんな将門を伯父の国香は襲撃します。
このときは叔父の良文が援護してくれて国香の兵を退けることに成功しました。

泥沼の一族抗争へ突入

あまね

その後、源護と平真樹の領土争いに巻き込まれ、将門は泥沼の一族抗争に飲み込まれていきます…。

なぜなら、伯父たちは護の娘を娶っており、将門は真樹の娘を正室にしていたため将門は一族の大半と対立する事になったからです。

戦に強い将門はこの一族間の抗争に次々勝利し、伯父の国香を死に追いやりました。

これに対し、将門に正規の方法で勝てない伯父の良兼は、将門の父・良将や祖父の高望の肖像を先頭に掲げ将門を攻めました。

これは「父や祖父に対して矢を射かけるのか、鉾先を向けるのか」という恫喝でした。
この卑怯な行いに対し、将門は反攻することなく敗走したのでした。

この敗走で将門の妻子(良兼の娘と孫)は良兼に連れ去られますが、良兼の息子たちに助けられ良兼の下を出奔し将門の下に戻ります。
人望は将門の方にあったことが伺えますね。

この後、将門は朝廷に対し自らの正当性を訴え出るなどして勢いを盛り返した将門は良兼の兵を駆逐し、良兼は病死したのでした。

平将門の乱をわかりやすく解説

平将門
平将門

関東一円に名声を得た将門は、武蔵国で起こった中央から赴任した国司と地方豪族の郡司の争いを調停したり、常陸国で国司と揉めて逃げてきた人物を庇護したりしました。

中央から来た国司VS地元の有力者のいざこざ

この時代、中央から赴任してくる国司には現地でひと稼ぎしようという人が多くいました。
そのため、無理難題を吹っ掛ける国司と、地元の有力者との間でいざこざが多く発生していたのです。

このいざこざは、朝廷の力を背景に持つ国司に分があります。

朝廷の理想は「公地公民」

そもそも朝廷の理想は公地公民です。
つまり、土地も民も天皇の物という意味です。

しかし、朝廷にはその理想のもとで国土を開発できる力がありませんでした。
そこで仕方なく、自分で新しく開墾した土地は自分の財産にして良いよってことにしたのです。

この、開墾の中心勢力となったのがいわゆる武士と呼ばれる人たちでした。
武士という階級は、基本的に天皇の子孫(源氏・平氏)と大貴族である藤原氏の係累です。

武士たちの不安定さ

位階“従五位の下”以上が「人」とされていた時代です。
公家たちにとっては、武士は一段も二段も低い存在で、「人」では無いのです。

したがって、武士たちが苦労して開墾した土地の権利は非常に不安定でした。
国との権利争いの他に、同じ武士たちとの間でも土地の所有問題が発生するからです。

なので武士たちの願いは、自分たちの所有する土地の権利がきちんと保障されることを願っていました。

将門は若い頃に中央で仕官し、国の現実の一端に触れ、失望して帰郷しました。
そして、伯父たちに土地を奪われるという目にも会いました。

将門の願い

彼は弱い者たちの気持ちがよく分かっていたのです。
それが中央から赴任してくる国司たちから苦しめられている関東の人達を助けるという行動につながり、朝廷への反逆という事になったのです。

将門が願ったのは「朝廷は独力で国土を開発するだけの力が無いのだから、せめて中央から離れた関東だけでも自分たちの権利を認め、自分たちに任せて欲しい」ということだったのでしょう。

将門の朝廷への反逆はやむを得ず行ったことなのでした。
この事は藤原忠平の送った書状の腰の低い文言からも読み取れます。

しかし、関東の独立など朝廷にとってはとても赦せることではありません。

平将門と朝廷の戦い

朝廷はすぐさま討伐軍を起こします。
討伐軍は、焦土作戦を決行するなど手段を選ばない方策に出て将門を追い詰めていきます。

あまね

そして遂に、将門は討ち取られてしまうのでした。

討ち取られた将門の首は、日本で初めてのさらし首に処されました。
これを憐れに思った将門に心を寄せる人々は、首を盗み出し故郷へと戻そうとします。

この事は政治的な判断から「将門の首が自ら飛んで行った」という事になりました。

盗まれたとなると盗まれた側の処罰やら、下手に犯人捜しをすると鎮火した関東の火種が再燃しかねなかったからです。
つまり「首が自分で飛んで行ったのならしょうがないよね」ってことです。

まとめ

平将門は私欲のために朝廷と対立したのではなく、弱い者たちの立場に寄り添ったからこそ、平将門の乱が起きてしまったことが分かりましたね。

この事からも将門の人望の高さが伺えます。
このように『平将門』とは男気に溢れた親分肌の高潔な人物なのでした。

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