東郷平八郎は弘化4年12月22日(1848年1月27日)に現在の鹿児島県である薩摩国で生まれたました。
14歳になり元服した後は薩英戦争、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争を経験し、数多くの功績を上げ、その名を歴史に刻みました。その数々の功績を紹介したいと思います。
東郷平八郎の4つの功績
ここでは東郷平八郎の主な功績をご紹介します。
①高陞号事件
1894年朝鮮半島をめぐる日本と清国による日清戦争が勃発します。
戦争のさなか1,200人以上の清国の兵士を載せたイギリス商船「高陞号」が海を進んできます。
その捕獲に当たったのが東郷平八郎が指揮する「浪速」です。
東郷は船の停止を呼びかけますが応じません。
船長を含む乗組員は清国に脅されていたのです。
それを見た東郷は船長らに船を捨てて、海に飛び込むように命じると高陞号を撃沈させます。
その結果、船長ら3人は救助したものの、他の乗組員は救助できず、乗組員や清国の兵士を合わせた1030名の死者を出しました。
イギリスはこの件ついて激怒し、損害の責任は日本にあると猛抗議しました。
日本政府からも事件について追求を受けた東郷ですが「東郷の致したことに不条理はござらぬ」と自らの主張を曲げませんでした。
イギリス国内では東郷の態度に怒りの声が多く上がり、日本とイギリスの間に緊張が走りました。
しかし、当時有名だった国際法学者ホルランドが日本の主張を認める論文を発表します。
ホルランドの主張は高陞号が敵対行為だと知ったうえで巡航していたので東郷の行いは当然のものであるというものです。
さらに8月7日に長崎の英国領事館で海事裁判所が開かれ、この件の責任は清国にあるとの宣告が出されました。
18日に上海で開かれた裁判でも、この事件の責任は日本政府にはないとの勧告が出されたことから、事件は収まりました。
②日露戦争で世界最強艦隊を撃破
1904年朝鮮半島を支配しようとするロシアとそれを防ごうとする日本で日露戦争が勃発します。
日本は数多くの犠牲者を出しながらも戦争を有利に進めていきます。
その戦闘のさなかロシアからバルチック艦隊が出港してきます。
このバルチック艦は当時世界最強の艦隊と恐れられており、日本にとっても驚異の艦隊でした。
そして1905年5月27日対馬沖にて、東郷率いる戦艦「三笠」含む連合艦隊(戦艦4隻、巡洋艦8隻以下96隻)とバルチック艦隊(戦艦8隻、巡洋艦6隻以下38隻)が激突します。
ここで東郷は後に「東郷ターン」と呼ばれる戦術をとりました。
この戦術は自身の船の右側を相手の戦艦真正面につけることで進路を防ぎつつ攻撃するという戦術です。
バルチック艦隊が日本海に到達するまでの7ヶ月に及ぶ訓練の甲斐あり、なんと損害をほぼ出さずにバルチック艦隊を撃破。
2日間に及ぶ戦いは日本の勝利で終わりました。
結果、日露戦争は日本の勝利となり、立役者の東郷はその名を世界中に響かせます。
世界から「アドミラル・トーゴー」と呼ばれ、イギリスではナポレオンのフランス軍を破った英国海軍の名提督になぞらえ「東洋のネルソン」と称されたのです。
③東郷平八郎「タイム誌」の表紙を飾る(日本人初!)
タイム誌は1923年にニューヨークで創刊された世界初のニュース雑誌です。
東郷は1926年に日本人初の表紙を飾りました。
このことから終戦後も東郷への関心が強いことがわかります。
現在では40人以上の日本人がこの「タイム誌」の表紙を飾っています。
その先駆けとなったのが東郷平八郎なのです😄
④トルコでも有名人に
日露戦争での日本の勝利を喜んだのは日本だけではありませんでした。
実はトルコも日本の勝利を祝福していました。
トルコはロシアに近い位置にある国でその脅威に悩みつつもロシアのような強国には叶わないと考えていました。
そんな中飛び込んできた日本がロシアに勝利したというニュースはあっという間に広がり、トルコでも歓喜の声が上がりました。
この功績を讃えトルコでは生まれてきた子供の名前に「トーゴー」と名付ける人が続出しました。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は東郷平八郎の生涯について紹介しました。
東郷平八郎について書かれた書籍や題材となった映画もありますので、興味を持った方はぜひ一度見てみてください。
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