数多の武将がひしめいていたいた日本の戦国時代。
その末期の安土桃山時代~江戸時代初期まで、本職である武士としての武勇で手柄を挙げたことはもちろん、茶人としてもその名を世に知られた一人の武将が存在していました。
それこそ今回ここで紹介をしたい上田重安(うえだしげやす)です。
晩年は出家して宗箇を号し、その名でも歴史に名を残した人物です。
上田重安の生涯
生まれ
上田重安は小笠原重元の子として1564年に尾張にて生を受け、自身の代で苗字を上田に改めたとされています。
祖父、父と同じく、丹羽長重に使える
上田重安は実父の重元、祖父の重氏と代々丹羽長重に家臣として仕えた家柄に生まれたため、自身も同じ道を歩みました。
丹羽長秀は織田信長の重臣の一人。
柴田勝家、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉らと並び称された武将です。
織田信長の死後は羽柴秀吉が織田家の実権を握ることを見越して、元々の筆頭家老である柴田勝家側ではなく、早くから羽柴秀吉側に協力する姿勢を示しました。
本能寺の変での上田重安の働き
1582年に生起した本能寺の変で織田信長とその嫡男の信忠が自刃して果てた際、丹羽長秀は信長の三男である神戸信孝の後見役を務めており四国征伐の準備中でした。
その中止を本能寺の変で余儀なくされた丹羽長秀は、織田信長の甥にあたる津田信澄が明智勢の謀反に加担していたと見なして、大阪城にいた津田信澄を攻めます。
その戦いで見事に津田信澄の首級を挙げた人物こそ、未だ10代であった上田重安その人。
一躍武人としてその名を世間に知らしめました。
上田重安、丹羽家の家臣から豊臣家の直臣になる
その後、丹羽長秀の読み通り、主君の仇をである明智光秀を討った羽柴秀吉は織田家中での実権を握ります。
そして、対立した柴田勝家を討伐してその地位を固めました。
これに協力した丹羽長重も柴田勝家が治めていた旧領の越前方面を与えられました。
しかし丹羽長秀は1585年に他界。
子の長重が跡を継ぎましたが、豊臣姓となっていた秀吉は織田家の重臣として力を持ちすぎることを警戒し、領地を大幅に召し上げ、同時に上田重安らの有力な家臣を自身の豊臣家の直臣としました。
この出来事で上田重安も越前の一部に一万石を拝領する豊臣家の大名に起用され、また妻も秀吉の正妻ねねの従兄であった杉原長房の娘をあてがわれ、1594年には豊臣の姓も与えられました。
関ヶ原の戦いでは西軍に参加
こうして豊臣恩顧の大名となった上田重安。
秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いに際して、その恩に報いるべく石田三成方の西軍の一員に加わります。
徳川家康方の東軍に就いた加賀の前田利長を牽制するべく、大阪城の守備に就いた後、旧主の丹羽長重が籠城していた加賀小松城の援軍に赴きました。
しかしご存じのように関ヶ原の戦いは徳川方の勝利で幕を閉じたため、西軍に与した上田重安は、加賀の領地を失い剃髪の上で出家し宗箇(そうこ)を号し、一旦表舞台から降りました。
庭園の造園家、茶人としての上田重安
上田重安は豊臣家の大名に取り立てられる以前から、茶人としてもその嗜みを行っていました。
秀吉に粛清される以前に千利休の弟子にもなり、またその没後は後継者となった古田織部にも師事して、茶人としての造詣を深め、茶室を含めた大名庭園の作庭でも既に名を知られる存在となっていました。
そのため領地を失った後には徳島をを治めていた蜂須賀家政に招かれて徳島城の内の旧徳島城表御殿庭園の造園に従事、多数の石を配した枯山水の庭及び池泉回遊式庭園を完成させました。
浅野家の家老として復活を遂げる
更に徳川政権下で紀州を納めることとなった浅野幸長とは妻を通じた姻戚関係にあったため、徳川家康の直接の許しを経て浅野家の家老として起用され、出家の道から還俗を果たし武士としても復活を遂げました。
そして1614年の大阪冬の陣では、上田重安は浅野家の長晟隊の一員として出陣。
大阪方に加わっていた敵の猛将・塙直之を見事討ち取る武功を挙げ、徳川家康やその後を継ぎ第二代将軍となっていた秀忠らからその貢献を高く評価されました。
その5年後の1619年には、改易された福島正則に替えて紀州から浅野家が安芸へと加増・転封され、上田重安もそれに従い、家臣ながら1万2千石を領する厚遇を受けました。
安芸でも上田重安は浅野家の別邸である縮景園の作庭を任されており、こちらも今も残る彼の業績を偲ぶことの出来る庭園となっています。
上田重安はこれ以外にも和歌山城や名古屋城の一部の庭園の作庭を行っており、そしうた能力や武将としての力量も高く評価されたことから、徳川家より再三直臣となる誘いを受けましたが、1650年に他界するまで浅野家の家臣のままでした。
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