多くの方がその生涯や変についての考察など書いておりメジャー過ぎる戦国武将かもしれません。
明智光秀、この人の生涯には興味がつきませんね。
なぜならば明智光秀ほど“なぜ”と疑問を感じる武将は他に存在しないからです。
先に主題の“なぜ”を書いてしまうと、やはり本能寺の変という日本史史上最も有名な謀反をおこしたのか?
これが世間でも有名な“なぜ“の最たるものでしょう。
しかし、私は謀反を起こしたこと自体よりも明智光秀のそれまでの生涯を鑑みたとき、なぜ三日天下で終わってしまったのか?そちらの方にこそより大きな”なぜ“を感じてしまうのです。
その“なぜ”に行き着くにはやはり明智光秀の生涯を見ていくことが大切です。
なので少々彼の出自から見ていきましょう。
明智光秀の生まれ
明智光秀、歴史上これほど有名な武将にも関わらずその生まれた土地や生年月日などの詳細はあまり記録に残っていません。
一説には清和源氏士族の土岐氏支流である明智一族の末裔ではないかと言われているもののそれも確定的なものではありません。
そんな中で光秀が生まれたとされる年で有力な説は永正13年(1516年)頃であろうと言われています。
謎に包まれた明智光秀の前半生
そして光秀の名が世の中に出てくる、あるいは歴史上の記録に出てくるのは永禄11年(1568年)。
織田信長に奉じられて足利義昭が上洛した前後から著名な歌人が集まる連歌会に出席していたと記され始めています。
実は生まれ年から換算すると、この年光秀は既に52歳と当時ではかなりの老齢でした。
それまでの前半生はほぼ記録上には残っていません。
諸説あるものの土岐氏の領有地であった美濃国で生まれ斎藤道三、斎藤義龍により美濃国が戦乱の渦に巻かれた時期に朝倉義景を頼り、そのあとは細川藤孝に仕えたと言われています。
細川藤孝は古今様々な教養を持った文化人であったため、光秀の連歌の素養や朝廷の政などに関する知識はこの時期に養われたものかもしれません。
明智光秀、怒涛の12年
足利義昭に仕えるようにして世に名前が出てきた光秀でしたが、そのわずか2年後元亀元年(1570年)には義昭と信長が袂を分かつことになりその流れで信長に仕えるようになります。
54歳で織田信長に仕える
この年光秀54歳。
当時は信長が好んだ敦盛にもあったように「人間50年」と言われている時代で50歳は寿命ともいわれる年齢です。
現代に当てはめれば80歳というところでしょうか。
光秀はそれを超えた54歳から信長配下として活躍し、本能寺の変を起こした天正10年(1582年)までのたった12年間、54歳から66歳までの期間での活躍、謀反が歴史上に残されているのです。
現代に当てはめてみれば、50歳で大手企業の中間管理職若しくは地方自治体の中堅職員だった人物がわずか12年で国務大臣もしくは官房長官にまで上り詰めたというような状況でしょうか?
これほどまでに有能な人物が50歳まで世に出ていない部分も大きな“なぜ”のひとつかもしれません。
光秀の躍進
52歳で信長に仕え始めてからは目覚ましい活躍が始まります。
現在でも賛否はあるものの比叡山焼き討ちにより延暦寺の暴挙を平定し、越前一向一揆殲滅戦に参戦こちらも平定。
その後は雑賀衆や幾多の国人が乱立する丹波平定を信長に命じられ6年近くかかるもこの難しい地方攻略も成し遂げます。
その年月の間にも朝廷の風習や政に詳しい光秀は、信長と朝廷の間を取り持つことなども度々おこなっています。
文武両道。有能な明智光秀
明智光秀というと連歌の素養や朝廷に関する知識が豊富なことから比較的文官的な人物とみられがち。
でも実際は、前述のように様々な武功を挙げて出世した生粋の武人でもあります。
なぜ本能寺の変は起こったのか?
そして、丹波平定が成った後に光秀は日本史史上最大の“なぜ”である本能寺の変をおこします。
このなぜには諸説あり、
- 家康饗応役時に罵倒されたこと
- 波多野氏に人質として出された母親が信長の約束違えにより殺されたことなどによる怨恨説
- 朝廷を第一に考えていた光秀と朝廷が組んで信長を抹殺したという朝廷黒幕説
- 秀吉黒幕説
- 家康黒幕説
など、さまざまあります。
どれだけ資料が出てきても光秀の心情は光秀本人に聞くしか分かりませんね。
99%事実が分かっても100%の真実には永遠にたどり着けないところは歴史の最も興味深い点かもしれません。
さて、上記“なぜ”光秀が本能寺の変をおこしたのかが世の最大のなぜではありますが、私が冒頭に記した“なぜ”は本能寺の変のその後にあります。
本能寺の変の謎。なぜ光秀は根回しを怠ったのか?
光秀はこれまでさまざま記したように武官として有能でかつ文官としても優れた人物でした。
幾多の戦の中で敗戦もありはしたもの基本的にはさまざまな攻略を用いて多くの戦勝を得てきた人物です。
なおかつ宣教師ルイス・フロイスをして「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」とまで言わせしめる深慮の持ち主です。
その光秀が信長を打った後にわずか10日前後の後には秀吉に滅ぼされてしまったのです。
本能寺の変以前までの光秀の能力からすれば諸武将への根回しも怠りなく、光秀討伐に来る勢力への構えも万全であって不思議ではありません。
この辺は怨恨説に言われるように、感情的になって後先考えられなくなった末の本能寺の変だとも言われる所以でしょうか。
私には光秀が信長を討ったことが歴史上良かったのか悪かったのかは分かりません。
しかし仮に光秀側に立ったとすれば信長の傍若無人さは非難される部分はあったと思いますし、信長の末期の行動から鑑みると生きていれば秀吉以上に外征に出ていたことは想像に難くないでしょう。
そして外征は秀吉の実例でも分かるように、日本という国や国民を疲弊させた可能性は高いです。
「明智光秀=天海」説について考える
ここからは余談になりますが本能寺の変の要因で私が好きなものは家康黒幕説です。
こじつけはあれどもさまざま「なるほど」と思わせる事実も存在します。
家康の側近で黒衣の宰相の異名がある天海上人。
彼も光秀同様に出自はあまり分かっておらず天正18年(1590年)の小田原攻め頃から突然家康の側近として歴史上に姿を現します。
- 僧侶にも関わらず着用していた鎧兜が現存しており、その鎧兜には明智の家紋である桔梗紋のような紋章が彫られている。
- 家康が死後に祭られている日光東照宮の近くには明智平という地域があり一説にはこの地名は前述の天海上人が名付けたとされている
- 三代将軍家光の乳母として有名な春日局。彼女の本名は斎藤福といい、明智光秀の重臣だった斎藤利光の実の娘が家康に見いだされて家光の乳母になったとも言われている。
信長の傍若無人ぶりを危惧した光秀と家康が示し合わせて信長を討ち、その悪名を自ら買って出た光秀は後に家康の最側近として再び世に姿を現す。
そして信長亡き世を徳川幕府という260年続く安寧の時代を築いた。
妄想かもしれませんが有能で実直な光秀の生涯の本当の最後として想像するにはロマンがあるのではないでしょうか?
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