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織田信長はどんな人だった?天下統一を目指すが本能寺の変で散る

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織田信長

子どもの頃にゲーム『信長の野望』にハマって以来30年以上の信長ファンで、小学校の夏休みの自由研究でも調査をしたことがあります!

織田信長、1534年~1582年まで生きた戦国武将。
戦国時代の日本で活躍した武将で、日本史上における重要な歴史的人物の一人です。

桶狭間の戦いでの奇跡的な勝利以降、天下統一に向けて動き出し、統一の礎を築いた武将というイメージが一般的でしょう。

あまね

歴史に~たられば~があったらとついつい考えてしまう事があると思います。
その中で私が1番たらればを感じてしまうのは、『織田信長』です。

もし本能寺の変で織田信長が死なず生きていたら…といつも考えてしまいます。
そして織田信長は暴君だったのか名君だったのか、不思議な魅力が織田信長にあって、私の心をとらえて離しません。

信長は織田家の当主として多くの偉業を成し遂げ、まさに戦国最強として織田家の名を全国に轟かせました。

尾張という小国の大名の息子でうつけ者と呼ばれていた信長の、日本史上に残る数々の奇跡を起こして領土を拡大。
天下統一を目指すも直前で家臣の裏切りに遭いその夢を果たせなかった、という濃い生涯は大変魅力的です。

その勇ましいイメージと革新的な性格で、今なお信長を好きな歴史オタクも多いのではないでしょうか?

そんないまさら感もある織田信長ですが、いまいちピンときてない方のためにもう一度おさらいしていきましょう。

目次

織田信長の生涯

織田信長とされる肖像の複写写真
織田信長とされる肖像の複写写真

生まれ

織田信秀
信長の父・信秀

織田信長は、織田信秀とその正室であった土田御前との間に嫡男として誕生しています。
天文三(1534)年のこと、幼名を吉法師でした。

尾張の一地方領主であり、しかも父の信秀が尾張国内で急速に勢力拡大中であり、尾張一国を統一できていない状態であったといわれています。

ですが、一応正室の長子という立ち位置で誕生、嫡男というスタートは悪くはないですね。
実際、信長は早い段階から、父信秀から居城(那古野城)を与えられています。

「尾張のうつけ」

信長は、「尾張のうつけ」と周囲から呼ばれていました。
尾張国は現在の愛知県ですね。

何をやるにも優等生の弟・信行とは違い、自分が気に入ったことにまっしぐらになる信長。
教育係である堀田の言うことも聞かず、尾張の田舎の百姓の子供たちと遊んでしまう幼少期でした。

武士としては素行が悪く、自分の城にほとんどいない信長のことを跡継ぎと認めていない家臣も少なくなかったほどです。

そしてとても身近で最も応援して欲しいはずの母親も、信長に好意を抱かなかった一人でした。

あまね

あの元King & Prince平野紫耀さんも、某番組にて織田信長を地元の先輩とおっしゃっていましたね笑。

家督相続

清洲城
清洲城

そんな中、信長の父親が逝去します。

この時を待っていたと言わんばかりに信長を気に入らなかった母親は、弟・信行に家督を継がせようと信行を頭に謀反を起こします。

当初はうつけという不名誉な評判から織田家の家督を継ぐ予定はなかった信長ですが、父親の死後、織田家を背負って立つこととなり若干13歳でその役割に就きました。
あまりの若さに驚いたでしょうか?

弟・信行との争いの末、織田家の正式な主になります。
ここの家督争いが実は本当に内容が濃く興味が惹かれます…!

稲生の戦い(いのうのたたかい)で信長側についたのは佐久間信盛・森可成(森蘭丸の父)前田利家・丹羽長秀などでした。

柴田勝家
柴田勝家

そして弟・信行側には、後ほど筆頭家老になる柴田勝家がいたのです。

もし、信長が暴君で気が短く、気に入らないとすぐ排除する人だったら、柴田勝家は稲生の戦いで死んでいたでしょう。

また信行のことも許していたのにも関わらず、まだ謀反を働こうとしていたので、信長も信行の暗殺を考えざるえなかったのだと思います。

この時、信長は身内の謀反に心を痛め、自分がひとりぼっちであるからこそ、周囲を大切にしなければならないと学んだとも言われています。
誰よりも弟の死を悼んだのでしょう。

また、信長の父親が逝去してすぐの頃は秀吉が家臣として頭角を表しておらず、信長自身も美濃の斎藤道三の娘である濃姫を迎え入れたばかりの頃でした。

信長の名前が広まった「桶狭間の戦い」

織田信長と今川義元像(桶狭間古戦場公園)
織田信長と今川義元像(桶狭間古戦場公園)

1560年信長の名を一気に上げることとなる『桶狭間の戦い』が始まるのです。

桶狭間の戦いは諸説あります。

実際の戦い方に関しましては割愛しますが、事実として残っているのは、桶狭間の戦いで今川家は織田家に敗北をし今川義元が亡くなったことです。

尾張統一

信長の最初の重要な業績の一つは、尾張の地における統一です。
彼は他の勢力との戦闘や同盟を通じて、尾張を統一し、自身の勢力を拡大させました。

華やかな信長の戦歴かと思われますが、尾張・美濃平定までは時間がかかります。
美濃の斎藤道三との出会い、齋藤義龍との戦い(長良川の戦い)など平定までになんと8年かかっています。

それほどの時をかけたにも関わらず、尾張は日本地図で見たら本当に小さな土地です。
隣には今川、朝倉、六角など勢力はさまざまでした。

信長は非凡な才覚を次々に発揮します。
特に戦術についての理解が深く、さまざまな改革を行いその能力は早くから注目されました。

その後、信長は他の戦国大名たちとの闘争に挑み、独自の統一戦略を展開しました。
信長は斬新な軍事戦術や城の改築、農業の奨励など、多くの面で改革を推し進めました。

信長包囲網

そこから信長の勢いは増していきます。
足利義昭を上洛させ幕府の再興を目指しましたが、義昭は信長包囲網を掲げ信長と敵対します。

実は信長は何度も裏切られたりしますが、許しているのです。
「魔王」なんてすごい呼ばれ方をしていますが本当は何度も許しているのです!

でも義昭も松永久秀など何度も許しては裏切り、許しては裏切り…。
さすがにダメだとなり信長も戦ったり、義昭に関しては殺さず京からの追放という形をとりました。

義昭を追放後は、朝倉、浅井と戦い、一向一揆を抑え、東で勢力のある武田家との戦い(長篠の戦い・甲州征伐)ほぼ日本を統一していました。

比叡山焼き討ち 

1571年9月、信長は比叡山延暦寺を攻めています。
このきっかけはさまざまありますが、その1つは家臣・森可成(もりよしなり)の死にあると言われています。

可成(蘭丸の父でもあります)は宇佐山城の戦いで討ち死にしました。
可成が宇佐山城で敵を必死に食い止めてくれたため、信長はピンチを脱します。

信長は可成の死を本当に嘆き、延暦寺の僧が加わった事に腹をたて、延暦寺の焼き討ちにつながりました。
坊主がなぜ戦うのかと疑問に思っていたからです。

しかも焼き討ちといいつつ、森可成をきちんと埋葬してくれた寺は焼き討ちしなかったそうです。
なので何もかも焼き討ちしたというのは語弊があります。

長篠の戦い

長篠の戦い

天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田勝頼軍に勝ち、天正4年(1576年)には、天下人の居城として、壮大で豪華な安土城の築城に入っています。

これは想像ですが、これまで悲しくショックな裏切り行為を経験(信行や長政)したけれども、これからは天下人として天下統一、天下泰平の世の中を作っていく意欲にあふれていたと考えています。

本能寺の変での最期

織田信長の最期
織田信長

特に有名なのは信長の「本能寺の変」です。
1582年、信長は首都の京都に進軍し、その地で織田家の勢力をさらに拡大しようとしていました。

しかし、突如として信長の信頼できる家臣である明智光秀によって謀反が起こり、信長は本能寺で自害しました。

本能寺の変

なぜ、明智光秀は信長を殺したのか。
理由はなにかと討論になります。

明智光秀
明智光秀

明智光秀の犯行同意については、信長を恐れていたからだとか、いずれ天下を取りたいと思っていたとかさまざまな考察がなされています。
長年信長に使えていた佐久間信盛の追放されたことも関係しているのかもしれません。

信長が怒りっぽく短気という説があったりするのですが『信長公記』ではそんな事はかかれておらず、柴田勝家もそうですが裏切ったとしても許しているのです。

果たして、なぜ明智光秀は「本能寺の変」を起こしたのか、他に黒幕がいるという説もありますが真相は謎のままです。

織田信長の最期
織田信長の最期

信長の生涯は49年と本当に短く、大好きだった敦盛の人間50年にも満たなかった人生です。

「本当に天に比べて短い」と唄っていましたが、でも織田信長は死後400年経っても日本人の記憶から忘れ去られていませんし、もし信長が~と考えてしまうほど魅力ある人物ですね。

織田信長死後の日本

この事件は信長の死後、その勢力を継承しようとする多くの戦国大名たちの闘争を引き起こし、日本史上の大きな転換点となりました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

そしてその後信長の遺志を継いで天下統一を成し遂げたのが、あの豊臣秀吉だったのです。

信長の死後も、その遺産は秀吉によって継承され、秀吉は日本統一に向けた大きな進展を遂げました。

織田信長の政策面での功績を解説!

日本人が信長好きなのは書籍、ゲーム、エンタメとあらゆるコンテンツで彼の人生に触れることができることが何よりの証拠ですし、組織改革やリーダーシップなどのセミナーでも彼の生き方を人生訓とするような教材をよく目にします。

しかし、信長の功績の中でスポットを浴びることが多いのは、桶狭間の戦いや長篠の戦いなどの合戦における戦術や、比叡山延暦寺の焼き討ちや家臣に対する厳しい当たりなどの人柄についてです。

そこで、この項は領土拡大の基礎となる経済発展やインフラ整備など、政策面で信長の功績について、3つの政策から分析したいと思います。

1.楽市楽座

現代ではGMSやショッピングセンター等、ワンストップで買い物ができる時代になりました。

ですが近代日本では専門の商人同士が取引する場となっていた「市」があり、朝廷や寺院から保護され原材料の調達や製品の販売を行い、芸の興行に関しても独占権が与えられていた商業組織の「座」というものが牛耳っていました。

この特権組織と化した「座」を解体させる規制緩和「楽市楽座」政策を断行しました。

「座」を解散させることで、「市」では誰もが自由に経済活動ができるようになり、城下町が活性化され、自国の領地が豊かになっていきました。

経済的メリットだけではありません。
政治的側面としても、領地の有力者と「座」との繋がりを断って、武家の大名に領主権があることを明確にしていったのです。

実際は南近江の六角家が以前にも楽市を実施していたのですが、信長が六角家を滅亡させこの政策が普及しましたが、他にも今川家や北条家など東の大名も楽市楽座政策を敷いていたことが分かっています。

2.関所撤廃

関所

楽市楽座によって各国での商業発展が起こると、自国の産地を他国や京の都に納める取引も盛んになってきます。
ところが、国を跨ぐには関所を通る必要があり、関銭と呼ばれる通行税を課せられたのです。

関所では時間とお金がかかるため、当時の物流業者は大変だったことが予想されます。

現在で例えるなら、高速道路でETCの無い料金所が市をまたぐたびに置かれていて、都度料金を払うようなイメージです。

信長は1568年に自国の領地の関所を廃止します。

これにより物流を盛んにすることで自国の領土間での物流がスムーズになり、また関銭が公家や寺院んなどの有力者に流れることを防ぎ武装勢力の資金源を断つこともできました。

あまね

余談ですが、防衛機能もあった関所を廃止することで、あの本能寺の変が止められなかったとも言われています。

3.主要道路の整備

信長は、まだ尾張国のみ統治していた頃から、道幅が2mほどしか無かった東海道の道路幅を約4mにまで拡張する事業を行っています。

その後美濃国征服を目指した頃にも、最前線に軍兵や軍需品を動かくために街道整備をしていますが、道路幅拡大に加え街路樹に柳の木を植えるよう命じています。

夏の暑い時期に木陰を歩けるようにという配慮したもので、軍事的な意味合いだけでなく商人や物流業者を考えての政策だと理解できます。

その後も天下統一に向け、安土に巨城を築城しはじめた頃も、京への街道を代替的に整備し軍事的・経済的発展の基礎を築いていくのです。

歴史は繰り返されると言いますが、戦後の現代日本でも上述のような政策は発議・実現されているのも面白いですね。

楽市楽座は、GHQによる財閥の解体や専売公社の民営化が相当しますね。
関所の撤廃は高速道路無料化(日本ではマニフェストに記載があり実現していませんが…)
主要道路の整備と言えば、田中角栄の印象が強い人も多いはず。

以上、3つの政策で商業や物流を活性化させ領土を拡大しながら莫大な資金を得ていき、強大な軍団や鉄砲に代表される最新の兵器を揃えていった織田信長。

あまね

私はこの政策的側面から、優秀な政治家であったと評価しています。
歴史上の人物を違った視点でとらえると、評価も変わってくるのかもしれません。

織田信長に残酷なイメージがついているのはなぜ?

織田信長とうぐいす

織田信長と聞くと、気性が荒かったり、独裁者のようなイメージを持ったりする人が多いのではないでしょうか。
しかし、信長は実はとても情に厚く、優しい人物でした。

では、なぜ信長は冷たいイメージが定着しているかというと、比叡山の焼き討ちがあるでしょう。
僧侶、女、子どもの首をことごとく刎ねています。

佐久間信盛
佐久間信盛

また、稲生の戦いの頃からの家老である佐久間信盛を追放したことも関係しているでしょう。

あまね

長年仕えていた家老に対して、最近の働きが悪いので「追放」というのは冷たいと思われるのかもしれません。


でも信長は、信盛に19箇条の折檻状を書いて渡したので、本当に信盛の働きが目に余っていたのかもしれません。

そして現代に置いたらいかがでしょうか?

昔は確かに業績は上げていたのかもしれませんが、今はたいして働かずただいるだけの人に給料は上げたくはありませんし、新しく入った人には示しがつきません。

現代からすれば考え方は合っているのかなと思います。

信長の考えが義理・人情を重んじる世界ではいささか早かったのかもしれませんし、信長も義理堅い性格だったということは忘れないでほしいですね。

織田信長と豊臣秀吉の関係は?

信長に仕えた秀吉
信長(左)と秀吉(右)

有名な話ではありますが、豊臣秀吉はもともと信長の家臣で草履を管理する役割を担っていました。

ある冬のこと秀吉は寒さ対策として草履を温め信長に渡したところ、信長は大変これを気に入り行こう秀吉を可愛がっていたそうです。

また、信長はよく秀吉のことをサルと呼んでいたとのこと。
その後、時は経っても変わらぬ信頼関係を気づいて行ったそう。

話は戻りますが、織田信長の業績はその死後も日本史に深い影響を与え、彼は日本の歴史における伝説的な存在となったのです。

織田信長と斎藤道三、帰蝶のエピソード

織田信長と斎藤道三、帰蝶のエピソード

帰蝶(濃姫)の父親である斎藤道三もまた、信長を殺そうとした一人であると言われています。
しかし、信長と帰蝶の深い愛情を知り、企てた謀反を諦めたと言われていることを知っていますか?

斎藤道三から宴席に誘われた信長

帰蝶を信長の嫁に送ってからしばらくして、斎藤道三は信長を宴席に誘います。

権力を得るためなら、何をしても誰も驚かない美濃のマムシとまで言われた斎藤道三の宴席ですから、信長は毒を盛られたり、少しの粗相を咎められて自害せよと言われたりすることを覚悟して、宴席に向かおうとしました。

帰蝶の守刀

その信長の姿を見た帰蝶は、斎藤道三が娘を嫁に出す日に携えさせたという守刀を信長に託すのでした。

この刀は、斎藤道三から濃姫に託されたもので、信長の隙あらば狙えと言われたものです。
また信長が、噂の通り本当に城を留守にして遊び呆けているろくでもない者であるなら、この刀を使って城を出て美濃に戻れと指示されたものでした。

帰蝶は、信長が宴席に向かう朝、父に言われたことを打ち明けます。
その時の信長はまるでそんなことは最初から承知していたかのようだったと言われています。

そして「まだ殺されていないということは、少しは信頼してくれているということなのか」と帰蝶に呟いたそうです。
女も子どもも戦の道具に使う戦国時代というのは、それぞれがそれほどまでに孤独なものでした。

信長の言葉に帰蝶は、父・斎藤道三の恐ろしさを最も知っているのは私であると答え、マムシに殺されそうになったら、これでマムシを殺してくださいと言って、父から預けられた守刀を渡すのでした。

道三の信頼を得た信長

宴席で斎藤道三は予想通り、信長の隙や粗相を探していました。
そして仕草をよく観察している途中、胸元に娘に託したはずの守刀を忍ばせていることに気付きます。

斎藤道三は、これを娘からのメッセージとして受け取りました。
そして、宴席から尾張に戻ろうとする信長に、良い婿を持ったと言ったそうです。
つまり、信長は帰蝶からの守刀によって、美濃の斎藤道三を味方に付けたのです。

去ろうとする信長に斎藤道三は、この先どのような戦が起きるのか、誰にもわからない時代だが、万一信長が困ることあれば、いくらでも兵を送ると約束するのでした。

おそらく信長は、人を動かすものは兵の数や権力ではないことを知っていたのでしょう。
誰かに教えられたのではなく、幼い頃からの直感だったのかもしれません。
そしてそれこそが戦国時代に名を残した織田信長の才能だったのかもしれません。

母親に気に入られようとするのではなく、自分から百姓の子どもたちと遊んで強い絆を作ったり、帰蝶を大切にすることで義父に信頼を得た信長は、一見して荒い性格に思われがちではあるものの、その分とても真っ直ぐで情に溢れた人物だったのです。

織田信長ほど裏切られた人はいない!?

信長の生涯を振り返っていくと、その特徴の1つに信長ほど多くの者に裏切られた武将はいないのではないかという点です。

人生の終わりにおいても、家臣の明智光秀の謀反により命を落としてしまい、天下統一の夢は破れました。

信長を裏切ったのは明智光秀だけではない

明智光秀
明智光秀

裏切ったのは、光秀だけではないんです。
裏切られた=死を意味する時代において、よく生き続けられたと正直考えてしまう生涯であったと考えてもいます。

そんな裏切られた場面を中心に見ていきましょう。

そして度重なる裏切りの中でも、天下統一に向けての先駆者として持ち合わせていた才能と運の強さを感じていきたいと考えています。

弟・信行の裏切り

本来信長を補佐する役割を担うはずである弟の信行が、弘治2年(1556年)に敵対行動にでてしまうのでした。

信長はその敵対行動を鎮圧したのですが、信勝は再度敵対行動の計画を立ててしまいます。
さすがにこの場に及んでは見逃すことはできず、信長は弟の命を奪うことになりました。

実は、信長と信行の実母である土田御前は、嫡男は信長だったけれども、その言動があまりにもひどいと感じていたため、礼儀正しい信行を寵愛し家督を継がせたかったといわれています。
この点も信長からすると裏切りにあったと考えて、最終的に信勝の命を奪う決断に至ったのではないかと考えています。

なお、当初信行の家臣で信長に敵対していた柴田勝家は、裏切り者だったにもかかわらず、許されていて、しかもその後織田家中内で異例の大出世を果たしていきます。

これは、信行の敵対行動計画を信長に密告したのが勝家であり、信長からすると、密告=大手柄である。
戦をしないで信勝を討ち取ることができた。
信勝の旧家臣達も自分の配下に収めることができた。
信長的にはよくやったという評価をしている表れだと思っています。

妹の夫・浅井長政

浅井長政
浅井長政

弟・信行との戦いに勝利した信長は、永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元を倒し、一躍その名を轟かせることに成功。

永禄10年(1567年)には斉藤龍興を滅ぼし、美濃平定にも成功。
永禄11年(1568年)足利義昭を奉じて上洛ということで、信長は天下人の階段を順調に登っていった矢先、ここで新たな裏切りに合ってしまいます。

江北の戦国大名で、信長の妹であったお市の婿になった浅井長政です。

元亀元年(1570年)、信長が越前の朝倉義景討伐の際、離反するといった形で裏切りが発覚しました。

「信頼厚く、妹の婿の長政が裏切るわけがない」と考えていた信長。
準備も対応も遅れがちになってしまい、殿をつとめた明智光秀や木下秀吉の活躍があって、何とか京に逃れることができたという有様でした。

本能寺の変を除けば、この裏切りは信長にとって最大のショックだったのでしょう。
同年の姉川の戦い以降、浅井氏の滅亡まで、一度裏切った相手は絶対に許さないという強固なスタンスは、この裏切りにより、強固に固まった気がしています。

波多野秀治

波多野秀治
波多野秀治

これは史実上正確ではなくクローズアップされてはいませんが、個人的に注目したい次の裏切りがありました。

それが、天正4年(1576年)、丹波国の波多野秀治が叛旗を翻したことです。

信長は光秀を派遣、天正7年(1579年)に秀治の居城の八上城を包囲。
戦いの終盤に、光秀は、八上城に自分の母親を人質として預けて、秀治ら三兄弟の助命を約束した上で和平に持ち込んだというエピソードがあります。

光秀としては、信長は波多野兄弟の命を助けるものだと踏んでいたけれども、過去の経験から、一度裏切った相手を信用することはできないと考えた信長は助命しなかった。

当然、憤慨した八上城に残っていた残党たちは、光秀の母を磔にした。
信長の決断で母を失った光秀は信長を恨み、それが本能寺の変に繋がった1つの原因ではないかというものです。

戦国時代、相手をやっつけないと自分がやられてしまうという厳しい世界です。
信長の決断は決断で筋は通っている気もしますので、史実上事実であれば、大変残念な結果になってしまったと思っています。

織田信長の黒人侍「弥助」

『相撲遊楽図屏風』の一部分。黒人らしき力士が見られる。
『相撲遊楽図屏風』の一部分。黒人らしき力士が見られる。

つい最近の話で言うと、信長の家臣に黒人がいたとの情報も有名になってきています。

マーベル作品である『ブラックパンサー』を演じた俳優、故チャドウィック・ボーズマンが演じる予定とされ一躍注目が集まったその映画こそがこの信長に仕えた黒人武士のお話なのです。

その名前は弥助。
奴隷として戦国の世の日本に渡来しました。

そこでは宣教師の護衛などで信長と出会い、以降信長に気に入られて彼の家臣になったと言います。

本能寺の変が明智側に捉えられた弥助でしたが、当時の日本では見られないいで立ちで、まだまだ海外への理解が浅かったため、なんとか殺されずにすみ、南蛮寺へ送られることとなりました。

この件からまた信長の先進性が伺えますよね。

あまね

ご存知の通り、信長は海外への興味も高く非常に熱心に海外情勢や海外の慣習を知ろうとしていました。

そう言ったことも先進的な戦術を取り入れられた要因の一つではないでしょうか。

まとめ

いかがだったでしょうか。信長を語るうえでさまざまな偉人が絡んでくる、これこそが信長の凄さの所以ではないでしょうか。

信長に認められる天下統一を果たした、豊臣秀吉、徳川家康。
信長暗殺に成功した明智光秀。

まだまだ信長を語るうえでの重要人物はたくさんいますが、つまるところそれほど日本に長きにわたって影響を与えていた人物だったのです。

信長は、各種外国文化を積極的に取り入れ、楽市楽座など、戦以外にも優秀な面を発揮。

光秀や秀吉など優れた家臣にも恵まれて、尾張という地の利もあって、優れた才能と強運のもと、天下人として登り詰める直前まで駆け上がることができた信長。

天正10年(1582年)、最後の裏切りで本能寺の変により生涯を閉じるに至ったことは、とても残念だったと思います。

しかし度重なる裏切りに屈することなく、日本を統一していった功績は皆の知る所であり、好きな戦国武将ランキングでもトップクラスを維持するほど、信長ファンは今後も多く存在し続けることでしょう。

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