徳川四天王のひとり、榊原康政。
徳川家康の三河守時代から仕え、武勇だけでなく知力も兼ね備えた戦国武将でした。
榊原康政の生涯
榊原康政の誕生
主である徳川家康の5歳下。
酒井忠尚の陪臣である榊原長政の次男として生まれます。
このころは「小平太」と名乗っていたようです
大樹寺にて高い教養を身に着ける
家督を継ぐ兄がいたため、康政は三河の国にある大樹寺に入り学問の修行に励んでいました。
この大樹寺、家康の先祖松平家の菩提寺で、松平家代々当主のお墓があるところ。
そこで登譽上人の教えを学びます。
幼いころから本をよく読み、字もうまく非常に賢い子供だったようで、このころに高い教養を身に着けました。
その達筆さ故、後に家康の書状を代筆することが多かったようです。
榊原康政の戦いぶりは?
そんな榊原康政ですが、1560年ごろに家康の見いだされて小姓として仕えることになります
そして家康の三大危機の1つ「三河一向一揆」で初陣を果たしました
その後も家康の旗頭として数々の戦に参戦して武功をあげ、その功績により家康から一字貰い受けて榊原「康」政と名乗るようになります
当時当主から名前をもらうことはとても名誉なことで、家康から高い信頼を得ていたとおもわれます。
そんな康政ですがかの有名な「姉川の戦い」にて大きな手柄を立てます。
織田軍の援軍として参戦していた徳川軍ですが、開戦当初浅井・朝倉勢に押され気味だったところを迂回して敵側面突く戦法で戦局を覆すなど大いに活躍しました。
榊原康政の豊臣秀吉にまつわる有名な逸話
また戦働きだけでなく知略にも定評があり、有名なエピソードの一つにあの豊臣秀吉を激怒させたものあります。
小牧・長久手の戦いの際、街中に秀吉を罵る立て看板をいくつも挙げ秀吉の冷静さを欠く戦略を実行しました。
それを知った秀吉は激怒し「榊原康政の首を取ったものには10万石を与える!」と言ったとか。
その後。
家康が秀吉と和睦した際に、最初の使者に秀吉はなんと康政をご指名。
秀吉はいたく康政を気に入ったようで、「小平太(康政の通称)」って呼んでもいい?
家康殿は素晴らしい家臣に恵まれてなんとも羨ましい。
なんて話したそうな。
自分を卑下した康政に従五位下・式部大輔に叙任させ、さらに豊臣姓を下賜しました。
これは徳川家臣のなかで康政が初めてのことでした。
こういったエピソードから読み解くに、康政は非常に賢く魅力のある人物だったのでしょう。
同じく徳川四天王の本多忠勝とは親友
同じく徳川四天王であった本多忠勝とは親友の間柄であったとのこと。
戦国最強とも謳われる武勇をもつ本多忠勝に対し、榊原康政は武勇・智略ともに優れたまさに文武両道の名将であり、あらゆる局面においてバランスよく家康をサポートしたといわれてます。
榊原康政、国の整備にも携わる
ほとんどの戦に参戦し主を守ってきた康政。
家康が領地替えとなり江戸に移った際には、築城の心得のあった康政は江戸城の修築にも携わります。
また、上野国(群馬県)を任され利根川の堤防整備や、街道整備など国の整備にも力を注いだようです。
榊原康政と徳川秀忠との関係
あの天下分け目の関ヶ原の戦いの直前、家康の息子徳川秀忠が上田城(長野県上田市)を侵攻した際に同行しておりました。
この時、康政は秀忠の参謀のような立場で秀忠の隊に同行しております。
上田城にいるのは、あの真田正幸と真田幸村親子です。
秀忠は家康に少しでも良いところを見せたかったのか、素通りも可能だったにもかかわらず寄ってしまったそうです。
康政は「上田城を攻めるのはやめたほうが良い」と進言したようですが、秀忠は聞かずに攻めかかってしまいます。
兵力では圧倒的有利だった秀忠ですが、一筋縄ではいかない真田親子にとにかく手こずります。
10日ほどたっても攻略することができず、やむなく離れるも関ケ原に到着したのは、関ケ原の戦いが起こった4日、5日後。
これに家康は激怒し、秀忠が会いに行っても断固として面会を拒んだそうです。
このらちが明かない状況に、家康に自分がついていながら申し訳ないと謝罪し秀忠を許すよう進言したのが康政です。
秀忠はこの件で康政に心から感謝し、今後榊原家を代々守っていくことを康政に約束した、とも言われています。
榊原康政の晩年と死因
この後、家康の家臣団の息子世代が老中となり、家臣団の世代交代を感じた康政は、家督を息子に譲り江戸から離れ余生を過ごします。
「老臣権を争うは亡国の兆し」
意味:老いた家臣が権力を持つことは国が滅びる前兆になってしまう
と言い離れていったと伝わっています。
1606年5月毛嚢炎を煩い悪化。
上野国館林城(群馬県館林市)にて死去。
康政に恩ある秀忠は、病床にある康政を見舞うため医師や家臣を遣わせたが、その甲斐なく59歳でこの世を去ります。
家康が天下を取る姿を見れませんでしたが、彼の功績なくして徳川家康の天下取りはなかったと言えるでしょう。
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