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本多忠勝、最強の戦国武将のエピソードと愛槍「蜻蛉切」

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本多忠勝
あまね

私の推しメンはなんといっても本多忠勝です。

彼が産まれた時代は、まさに戦国時代。
その主は誰もが知る徳川家康公です。

ちょうど今は徳川家康が大河ドラマで注目されてますね。
本多忠勝も第一話から登場しております。

「本多平八郎忠勝」と記載されることもあり、ドラマなどではよく「平八郎」と呼ばれております。

57回もの戦に参戦しながらもかすり傷一つ負わなかったとも言われており、戦国最強の武将と称されるほどの名将でした。

目次

本多忠勝の誕生

産まれは、主君徳川家康公と同じ三河の国である岡崎。
年齢は家康よりも6歳年下。

家康がまだ竹千代と呼ばれていたころ、東海地方最大の戦国大名今川家の人質として駿府にわたる際にも同行しておりました。
主君と家臣の間柄でしたが幼馴染のように育っていたのかもしれませんね。

本多家は祖父、父も、松平家に仕える武士でした。
父である本田忠高は、忠勝が2歳のころ主君である松平広忠(徳川家康の父)の代に討死。

あまね

忠勝は、叔父である本多忠真に育てられました。
主君を守れるよう幼き頃から厳しく鍛錬を受けていたようです。

本多忠勝の初陣は?

本多忠勝

そんな本多忠勝の初陣は桶狭間の戦いの際に、徳川家康(当時の名前は松平元康)が今川義元より指示された大高城の兵糧入れでした。
兵糧を運びいれるのが任務とはいえ、敵陣が取り囲んでいる大高城に兵糧を運び入れるわけですので、当然戦が伴う任務になります。

あの織田信長率いる織田家が相手ですので簡単ではありませんでした。

しかも総大将である今川義元が織田信長に討ちとられ、今後の見通しもないまま自国に何とか逃げ延びるという波乱のスタート。

初陣から危険度が非常に高かったわけですが、主君とともに最終的に岡崎城まで無事に戻ります。

主君・徳川家康に忠義を尽くす

その後、三河国の正式な大名となり勢力を拡大していく徳川家康をそばで支え、常に前線で活躍していきます。

家康が死を覚悟したともいわれる三河一向一揆では、多くの家臣までも敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げました。
忠義に厚く家康が心から信頼していた家臣だといえます。

徳川四天王にともに名を連ねる榊原康政とは同じ年で、親友といわれるほど仲が良かったようです。

本多忠勝の最強と言われるのはなぜ?

本多忠勝所用の甲冑(黒糸威胴丸具足)と鹿角脇立兜
本多忠勝所用の甲冑(黒糸威胴丸具足)と鹿角脇立兜

本多忠勝の最強エピソード1、三方ヶ原の戦い

本多忠勝には、いくつも武勇をほめたたえるエピソードがあります。

武田軍と戦い大敗した三方ヶ原の戦いでは殿(しんがり)を務め、あまりの気迫に武田軍が思わず道を開けてしまったとか。

そんな本多忠勝をほめたたえた言葉に、武田軍家臣・小杉左近「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」、織田信長「花も実も兼ね備えた武将である」。
豊臣秀吉「日本第一、古今独歩の勇士」などがあります。

本多忠勝の最強エピソード2、小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦いでは、死を覚悟して家康を守るべく殿を務める本多忠勝の姿を見て、秀吉は攻めかかろうとした家臣を止め、「本多忠勝は生かしておけ」と家臣に命じたとか。
いつか自分の家臣にしたいと心から思ったようです。

その後も、秀吉は忠勝を城に招き、贈り物をして取り入ったものの、わが主、徳川家康に対する恩は図りなし、とかたくなになびかなかったそうです。

本多忠勝の愛槍「蜻蛉切」

本多忠勝の愛槍「蜻蛉切」
本多忠勝の愛槍「蜻蛉切」

とにかく無双の武勇が多く残る本多忠勝ですが、愛槍は「蜻蛉切」という刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。
柄の長さはなんと約6m。
穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付いたそうです。

たぐい稀なる槍の使い手でしたが、実は人に教えるのがとても苦手だったようです。
最強と言われる忠勝でも不得手なことがあるというのも忠勝の魅力的な一面なのかもしれません。

晩年は、体力の衰えを感じ、柄の長さを90cmほど落としたそうです。
衰えを感じても、常に効率よく戦うことを考え行動する柔軟さもあったようですね。

武勇だけでなく、統治にも優れた本多忠勝

関ケ原の戦い後は、今の三重県である伊勢国桑名を任せられました。

桑名藩を治めた忠勝は、藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行いました。
桑名市では今でも名君と仰がれ、桑名の商工祭りでは「忠勝・千姫時代行列」があるそうですよ。

武功が広く知られておりますが、統治もなかなかのものでした。

本多忠勝の晩年と辞世の句

晩年は眼病を患い、隠居を家康に申し出るも、すぐには受け入れてもらえなかったとか。
息子に家督を譲り桑名で過ごしていたようです。

本多忠勝は、1610年にこの世を去ります。

その間際に「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」と、最後まで主君に忠義を貫き、辞世の歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」と、最後まで家康よりも先に死んでしまうことを嘆いておりました。

【まとめ】最強武将の名に恥じない本多忠勝の生涯でした!

数々の武将にその武功をたたえられ、忠義に厚かった本多忠勝。
家康の故郷、岡崎城がある岡崎公園内にある龍城神社では、徳川家康と本多忠勝が祀られています。

あまね

かすり傷一つ負わなかった忠勝、勝利の神様として参拝する方も多いのかもしれませんね。

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