徳川四天王の一人、井伊直政。
今年の大河ドラマ「どうする家康」では、板垣李光人さんが演じてますね。
井伊直政の生涯
井伊直政の生まれ
生まれは、今の静岡県である遠江。
井伊直親の嫡男として誕生します。
父の井伊直親は、今川家に仕える戦国武将でした。
幼名は虎松。
わずか2歳のときに父を失い、井伊直虎が跡を継ぐ
産まれた翌年、なんと父直親が松平家と通じていると謀反の疑いをかけられ、今川氏真に誅殺されてしまいます。
まだ虎松は2歳のときの出来事です。
わずか2歳の虎松が家督を継ぐわけにもいかず、やむを得ず叔母に当たる井伊直虎が家督を継承します。
ちなみに当時彼女は龍潭寺に出家しており次郎法師と名乗っておりましたが、家督を継いだため「井伊直虎」と名乗ります。
その直虎とともに、虎松は三河国の鳳来寺にて身を寄せます。
父の謀反の疑いは晴れず虎松も命を狙われていたため、出家したことにすれば命までは取られまいと判断したのです。
女性が家督を継いでも、幼き虎松を出家させてでも、先祖を思い井伊家は存続する道を模索します。
井伊家の先祖
もともと、井伊家は、あまり知られておりませんが今川家臣のなかでも歴史のある名家でした。
先祖は藤原氏といわれ、鎌倉時代には武家八介の一人として遠江地方の国人領主を任されておりました。
その後南北朝時代、勢力を拡大していた今川氏に敗北、最終的に今川氏の臣下となります。
井伊直政、徳川家康の小姓になる
井伊直虎の養子となり、大きくなった虎松。
15歳のころ運命の出会いがあります。
あの徳川家康に見いだされ家康の小姓となり、呼び名が虎松から「万千代」となります。
鷹狩に行った際に、偶然遭遇したといわれておりますが、井伊家の再興を図るため家康と出会うよう井伊家内で画策した、などという説もあります。
虎松はかなりの美少年といわれておりましたので、家康も虎松の美貌に目を奪われたのかも…。
初陣
家康に小姓として仕えるようになったその年、武田軍との戦いで初陣を果たします。
初陣でありながら活躍し、家康を暗殺しようと忍び込んだ敵をも見事討ち取っております。
その後も、高天神城攻めでも本多忠勝、榊原康政ととも先鋒を務め活躍します。
大活躍しますが…まだ呼び名は万千代です。
直政元服の年に起きた本能寺の変
1582年、虎松が22歳のとき元服してようやく「井伊直政」と呼ばれるようになります。
この年、直政を衝撃的な出来事が襲います。
織田信長が家臣の明智光秀に殺されてしまうあの「本能寺の変」です。
このとき直政は徳川家康とともに堺(今の大阪)観光に訪れており、本能寺からそれほど離れていません。
もともと信長に呼ばれて来ており観光でもして帰りましょ、だったので供廻りは数十名のみ。
家康は死を覚悟します。
が、本多忠勝たち家臣の必死の説得で思いとどまり、伊賀を越えて三河の国岡崎城まで帰ります。
このときに直政は、家康からど派手な孔雀の羽で織られた「孔雀尾具足陣羽織」を送られていますね。
井伊直政の優れた交渉力
直政、実は交渉も任せられる男でした。
天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を担当しました。
井伊の赤備えの由来
その後家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、その旧臣たちも抱え武田の兵法と赤い鎧を受け継ぐことになります。
いわゆる井伊の赤備えです。
豊臣秀吉と家康が直接対決する「小牧・長久手の戦い」では、ベテラン勢にも負けないほどの武功をあげます。
赤備えで旧武田家臣を連れ果敢に攻め入る姿から、「井伊の赤鬼」と称され、直政の名が諸大名に広く知れ渡ることとなります。
家康が豊臣秀吉に臣従した際、秀吉は直政の手腕を高く評価し、従五位下という位にしています。
いわゆる貴族扱いといった感じでしょうか。
その際に豊臣姓を与えています。
が、後の記録によると直政は「井侍従藤原直政」と藤原姓を称したようです。
井伊直政のイケメンエピソード
秀吉の母大政所が岡崎に人質としてよこされた際に、井伊直政の丁寧な対応とカッコよさにメロメロになったようで、大阪に戻る際に直政に警護のため同行するよう強く希望したとか。
大河ドラマ「どうする家康」でもこのエピソードが使われてましたね。
家康が領地替えにより江戸に入った際に、12万石を与えられます。
これは徳川四天王の本多忠勝10万石、榊原康政10万石よりも多く家臣団の中で最高でした。
寡黙で自身にも家臣にも厳しい性格
常に自分に厳しく、家臣にも厳しかった直政。
あまりのシビアさに逃げ出す家臣も少なくなかったようです。
また寡黙でかなり気性があらかったとも言われています。
秀吉の死後、天下分け目といわれる関ケ原の戦いで、フライング気味に切り込んでいきます。
先陣を切る予定だった福島正則が後から家康に苦情を言っていたそうです。
とにかく勢いのある直政。
決戦後半であの恐ろしい島津軍と対峙し、島津豊久を討ち取ります。
その際に島津軍の放った銃弾が足に当たり直政は重傷を負います。
関ケ原の戦い終結後、傷も言えぬまま戦後処理に奔走。
西軍の毛利輝元との和睦、四国の長宗我部盛親、九州の島津家との和平にも尽力したとされています。
井伊直政の最期
関ヶ原の戦い後、石田三成の所領だった近江国を与えられ、彦根城の築城を始めます。
慶長7年(1602年)、直政はこの世を去ります。
彦根城の完成を見ることはかないませんでした。
まだ42歳でした。
まとめ
徳川家康の天下取りに多いに貢献した井伊直政。
ちなみに、彦根城のひこにゃん。
直政の赤い兜をかぶってますよ。
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