藤原定家(さだいえ・ていか 1162ー1241)をご存じでしょうか。
藤原定家は平安時代末期~鎌倉時代前期の歌人として知られる貴族でした。
苗字からもわかる通り、ご先祖様は中臣鎌足を始祖とするあの藤原氏です。
既に書いた通り、彼は歌人でした。
藤原定家『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の編纂を担う
そもそも当時の貴族はほとんどが歌人であるといっても差し支えない状態でした。
そのなかでも彼は優れた才能を発揮し、『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』という天皇の命令で作られる和歌集の編纂を担っていました。
また、藤原定家の作品は『小倉百人一首』にも選ばれています😄
藤原定家『明月記』という日記を詳しく解説!
そんな定家ですが、ある日記をつけていました。
それは後に『明月記』と呼ばれる日記です。
ちなみに当時の貴族が日記を記すのは普通のこと。
日々の出来事や朝廷で行われる儀式の手順、やり方(細かいことでは、右足から出すのか左足から出すのかなど)を子孫に伝えるために書いていました。
当時の貴族の風習でもあった日記執筆です。
そこには、定家が当時観測された天体現象について記録を残していました!
『明月記』で天体現象を記録
ではどのような記録を残していたのか。
それは「客星」に関する記録です。
寛喜2年11月1日(1230年12月6日)のこと…、定家は空に見慣れない星を見つけます。
今までは見えなかった星です。
定家は日記に「この星朧々として光薄し。その勢い小にあらず」と淡い光を放っているが、その光は結構強い、と書き残しました。
その後気になったのか、当時知られていた客星を天文学をつかさどっていた陰陽寮の安部氏に尋ね、8件の客星出現例を報告しました。
『明月記』で記された「客星」とは?
では、そもそも「客星」とは何なのか。
「客星」とは突然現れる星のことで、彗星や超新星(太陽の30倍ほど以上の大きさを誇る星が終焉を迎える際に発生する巨大爆発)を指します。
いわばお客さん星ともいえそうですね。
定家が1230年に目撃した客星は彗星でした。
しかし、後世に評価されたのは超新星の記録でした。
陰陽師に問い合わせたものの内1006年、1054年、1181年の客星例が超新星爆発の記録ということが分かっています。
なぜ『明月記』の評価が高いのか?
なぜ後世になって評価されたのでしょうか。そ
れは世界中探しても記録がほとんどないためです。
当然、当時のどこを探しても今のように望遠鏡はありませんし、月食や日食の予想こそできても、突然現れる客星の予想は不可能でした。
それどころか、そもそも文字を持つ人口さえも限られ、日本国内でも数少ない貴族や武士、地方豪族などに限られ、現代のように民衆が記録を残せるような時代でもありません。
望遠鏡発明以前の超新星爆発に関する文字記録は世界でもわずか7件(中国とイスラーム圏)しかなく、そのうちの3件が定家、『明月記』によるものでした。
そのような貴重な記録が残っていたのが『明月記』なのです。
『明月記』で記されたオーロラ
また、『明月記』には赤いオーロラの記録も残っています。
この赤いオーロラは江戸時代後期にも観測されるなどしました。
緑のイメージのあるオーロラも低緯度帯では赤いものが観測されます。
このように多数の天文記録が残る『明月記』は2019年に日本天文遺産に選ばれており、その重要性が伺い知れます。
ここまで『明月記』の科学史上の価値について話してきました。
『明月記』で垣間見れる社会や歴史
『明月記』は歴史学的価値も非常に高いです。
源氏物語など当時から知られていた古典作品の書き写しや、宮廷内部の政治事情、家庭の様子などまさしく日記と呼ぶにふさわしいような内容の記述が多くみられます。
そのため『明月記』は、鎌倉時代の社会や宮廷の歴史の研究だけではなく、歌人定家としての人物研究や文学研究にも多く用いられています。
以上『明月記』を中心に藤原定家について見てきました。
まとめ
これまでにも見てきたように、彼の観察眼は広く、宮廷内部や和歌だけにとどまらず、夜空から家庭まで広い視野を持っていました。
また彼の生きた平安時代末期~鎌倉時代前期は、貴族から武士の世の中に変わるという大変革の時代であり、貴族の地位は下落する一方でした。
そんな厳しい世の中でも生き残れたのは彼の鋭く広い観察眼があったからといっても過言ではないと思います。
そんな定家の視野の広さは激動の現代を生きていくうえでも参考になるものがあるかもしれませんね。
ちなみに群馬県高崎市には定家神社という彼にゆかり(源氏の一族との対立で流罪になったとか)のあるとされる神社が残っているので、気になる方は行ってみてはいかがでしょうか?
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