平清盛(たいらのきよもり)って聞いたことありますか?
日本史の教科書に載っていますし、NHKの大河ドラマでも2回主人公に取り上げられたことがあります。
さて、どんな功績がある人なのでしょうか?
平清盛ってどんな人?
平清盛(1118年~1181年)は武士階級で初めて太政大臣となり、平家の隆盛を達成した人物です。
あまりの隆盛ぶりに傲慢と批判される平家ですが、実際の清盛の人物像とはどの様なものだったのでしょうか?
それでは、彼の生涯を振り返ってみましょう。
平清盛の生涯
生まれ
清盛は伊勢平氏の棟梁・『平忠盛(たいらのただもり)』の嫡男として生まれました。
生母は不明ですが、『白河法皇(しらかわほうおう)』の落胤とする説も有ります。
父の忠盛は院の近臣として勢力を拡大し、清盛も『鳥羽法皇(とばほうおう)』の第一の側近『藤原家成(ふじわらの いえなり)』と親交を深めていきました。
清盛の勢力拡大
その後、安芸守(現在の広島県西部国司)に任命されたことを契機に瀬戸内海の制海権を確立するとともに、西国へ勢力を拡大しました。
この頃から厳島神社の復興に力を尽くし信仰を厚くしていきます。
また、「保元の乱」および「平治の乱」で勝利を重ね朝廷の軍事力・警察力を掌握していきます。
平清盛、太政大臣になる(武士階級で初!)
更に『後白河上皇(ごしらかわじょうこう)』と『二条天皇(にじょうてんのう)』とも密に接し、信任を厚くすることで官位を昇進していきました。
その後、太政大臣に昇進し、福原の開拓に尽力します。
そして、日宋貿易を推し進め、莫大な財を築くと共に、全国に500余りもの荘園を保有するまでに隆盛を極めました。
時代背景
平家隆興の下地には院政の実施があります。
院政は、摂関政治に対する天皇家の対抗措置と言えるでしょう。
院政の始まり
院政の始まりとみられる白河法皇は、藤原摂関家から実権を取り戻すために、皇子の『堀河天皇(ほりかわてんのう)』が幼い頃(8歳)に天皇位を譲りながら引き続き政務を行ないました。
堀河天皇が没すると孫(堀河天皇の皇子)の鳥羽天皇(後に鳥羽法皇)に天皇位を継承させました。
つまり、摂関家の意向が通っていた天皇継承を天皇家に取り戻したのです。
これにより白河法皇には絶大な権力が集中しました。
しかし、この「院」という立場は大宝律令に規定されていません。
つまり、法律の裏付けが無いにも関わらず最高権力を保持していたのです。
院の周りに集まる人たちは?
そして院が居るからには院をお世話する人たちが必要です。
しかし、従来の官職は天皇を補佐し、行政を司るのが使命です。
このため、院は独自に自らの側近を集まるわけですね。
律令の規定が無いために院が自分のお気に入りを身分に関わらず登用できたわけです。
必然的に、通常の方法では栄達を望めない人々が院の周りに集まって来ます。
清盛の父・忠盛もこのような人々の一人でした。
こうして平家が隆盛する下地が敷かれて行ったのです。
院政の暴走
巨大な権力を持つと人は狂ってしまうのか?
それとも白河法皇の元々の資質なのか。
保元の乱が起きるまで
白河法皇の院政は、段々と暴走状態になって行きます。
その影響が後に保元の乱として現れるのでした。
保元の乱は『崇徳上皇(すとくじょうこう)』と『後白河天皇(ごしらかわてんのう)』の対立で起こった戦乱ですが、この元には白河法皇のご乱心が有ると言われています。
実権を握り続けた白河法皇
白河法皇の治世、孫の鳥羽天皇は皇子の崇徳天皇に天皇位を譲位させられます。
これにより鳥羽天皇は上皇となるのですが、実権は白河法皇に有ります。
そして、鳥羽上皇は崇徳天皇を嫌っていました。
なぜなら、崇徳天皇は白河法皇と鳥羽上皇の中宮との間に出来た皇子だったからです(*諸説あります)。
鳥羽上皇も院政を引き継ぐ
白河法皇の死後、鳥羽上皇は崇徳天皇を欺いて治天の君(実権を持つ上皇)に成れないような形で弟の『近衛天皇(このえてんのう)』に譲位させました。
近衛天皇が若くして崩御した後も崇徳上皇の皇子ではなく、もう一人の弟『後白河天皇(ごしらかわてんのう)』が即位します。
崇徳上皇VS後白河天皇の間で起きた保元の乱
こうして不満を募らせた崇徳上皇は、鳥羽上皇の没後、後白河天皇との間に武力抗争(保元の乱)を起こしたのでした。
平清盛の台頭
こうして乱れた朝廷の権力抗争に勝利して台頭したのが清盛です。
親族を天皇に嫁がせて、権力を増す
清盛は、藤原摂関家と同じように天皇に妻の妹や娘を嫁がせることで朝廷への影響力を増していきました。
平清盛、日宋貿易で莫大な富を得る
また、瀬戸内海の制海権を確立するとともに、日宋貿易で莫大な富を得ます。
そして、宋銭を輸入、流通させることで通貨経済の礎を築きました。
この頃の経済の主流は物々交換です。
その基本となっていたのが米で、その生産を担っていたのが新興勢力の武士なのでした。
しかし、この頃の武士はとても弱い立場にありました。
なので全国の武士たちは、武士階級で栄達した平家にとても期待していたと思われます。
因みに、「平家」とは清盛の一族である伊勢平氏を指し、全国の「平氏」とは別に表されます。
平清盛が目指した日宋貿易による富国と通貨経済の確立
このように武士階級の権利向上を望まれていた清盛でしたが、清盛が目指したのは日宋貿易による富国と通貨経済の確立でした。
むしろ、土地を巡って一族間や近隣と血みどろの戦いを繰り広げる武士たちを忌諱していたと思われます。
この清盛の政策は、武士階級から強く失望された事でしょう。
また、公家たちからも日宋貿易に対しては強い警戒感を受けたと思います。
公家たちは前例のないことを酷く嫌います。
また、通貨経済は商人階級の確立もできていないこの時代には理解されないことだったでしょう。
日宋貿易のリスクとは?
更に、日宋貿易の実施には危険性が有りました。
この時代の「宋」もですが、中華の国は他の対等の「国」を認めていません。
世界に「国」は中華のみ、他は文化の無い地域だというのが中華の基本的立場です。
なので、貿易という対等な関係はどうあがいても構築出来ないのです。
中華との貿易の実態とは貢物を中華の皇帝に献上し、返礼品として貢物の数十倍の宝物を受け取る朝貢であったのです。
つまりは中華国家の冊封体制に組み込まれるということで属国になる危険性があったのです。
まとめ
清盛は先見性を持った戦を嫌う温厚な人物でした。
事実、
- 最下層の召使でも一人前の人物として扱った
- 他の人のとんでもない振る舞いも冗談として場を治めた
- 相手を労り、にこやかに対応した
- 誤りに対し声を荒げることが無かった
- 幼い従者が朝寝坊しても起こさないようにして十分寝かせた
などなど、いくつも温厚さを示すエピソードが残っています。
ですが、時代のうねりは清盛の理想を飲み込んでいってしまいます
清盛の政策は、ただでさえ弱い立場の新興勢力である武士たちの存在意義を揺るがすものであり、日本の独立性も危うくする危険性もありました。
人々の意識的にも、東アジアの情勢的にも清盛の考え方は早すぎるものだったのです。
この不満は清盛が孫の『安徳天皇(あんとくてんのう)』を即位させると平家への反感として一気に噴出していきます。
そして清盛が病死すると平家は坂道を転がり落ちるように瓦解して滅亡するのでした。
清盛は生まれる時代が早過ぎた人物だったのかも知れませんね。
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