“福沢諭吉”と聞いてあなたは何を思い浮かべますか?
私は2つのことを思い浮かべました。
その2つのことが本記事で福沢諭吉について書こうと思った理由です。
福沢諭吉は慶應義塾大学の創始者
1つ目は私が憧れていた大学の創設者であるということ。
そう。慶應義塾大学ですね。
残念ながら、私は慶應義塾への入学の夢は叶いませんでしたが、その過程において福沢諭吉について調べて、とても愛着がある偉人となりました。
福沢諭吉は”学問のすすめ”の著者
2つ目は”学問のすすめ”です。
有名な一節で、“点は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず”という言葉がありますが、この本について知っているようで何も知らないというのが現状でした。
そんな福沢諭吉関して本記事で詳しく書いていこうと思います。
福沢諭吉の生涯
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は近代日本の基礎を築いた思想家であり教育者です。
その影響力は絶大で、教育分野だけでなく政治経済にも彼の影響が感じられます。
今なおテレビで取り上げられる渋沢栄一も彼の教えを参考にしたと言われています。
生まれ
1835年に豊前中津藩の下級武士の子供として生まれた福沢諭吉。
子どもの頃から非凡な感性を持ち、祟りが本当にあるのか確かめるために、わざとお札を踏んでいたと言われています。
その一方できれいに障子を張り替えるなど手先が器用なところもありました。豪胆さと繊細さを兼ね備えた人物像がこの頃からうかがえます。
書にのめり込む
5歳になると漢学を学び始めるのですが、意外なことにはじめのうちは本を読むのが苦手でした。
10歳になっても真剣に漢学の本を精読することはなかったそうです。
しかし、本も読めないのでは体裁が悪いと14,5歳の頃から本を読みはじめます。
福沢諭吉は気持ちが入ると強い人で、18歳になると兄も師事した塾に通い、論語はもちろん孟子や詩経、書経、史記、老子、荘子を読み、好きな箇所は暗記してしまいます。
父の他界により貧しい生活を強いられることとなりますが、転機が訪れたのは長崎を出てから。
蘭学と砲術を学ぶ
19歳で長崎に遊学。
当時の最先端の学問であった蘭学と砲術を学びました。
そして大阪に引っ越します。
緒方洪庵の適塾に入門することになるのですが、このことは彼の独立心の強さから起きた出来事でした。
地元の知識人の教えだけでは満足できなくなった諭吉は一人で大阪に向かいます。
この頃から彼は自己を高めることに強いこだわりを持っていたようです。
今風に表現すれば、「ありえないくらい意識が高い成年」と言えるでしょう。
大阪における福沢諭吉の様子は「昼は書を読み、夜は薪を割る」と言われるほど凄まじく、まさにひと時も無駄にしない生き方をしていました。
日々の弛まぬ努力の末、適塾では学長にまで上り詰めました
貧しさに屈することなく学問に打ち込んだ若き日の彼には見習うところが多いでしょう。
【転換】英学に力を注ぐように
24歳になると諭吉は大きく方針を変更します。
これまで蘭学に力を注いできましたが、一転して英学を学ぶようになりました。
ペリーが来航し、日米修好通商条約が結ばれるなど、英学の重要性を感じさせる出来事が続き、これからは西洋学問が鍵になると感じます。
令和の時代から振り返れば、彼の方針転換は当然のように感じますが、この時代はまだまだ蘭学を重視する傾向が強く、西洋文学に鞍替えする知識人は決して多くありませんでした。
いかに彼が柔軟な考えを持ち、先の時代が見えていたか分かるでしょう。
渡米
25歳以降は福沢諭吉の大胆な行動力に驚かされます。
日米修好通商条約の批准書を交換するために幕府の使節団の一員となり渡米します。
いち早くアメリカの事情に精通したいという気持ちが強かったとはいえ、英語を学び始めて1年足らずで、日本人がほとんど知らないアメリカに渡ると決意できた20代の若者が当時どれだけいたでしょうか。
そして、そのときに乗っていた船こそ、あの有名な咸臨丸なのです。
そこで福沢が見たものは想像を遥かに超えるものでした。
当時の日本と比べて、国力が上であったアメリカの生活はまさに驚きそのものでした。
着ているものから食べるものまで全て日本と異なり、この渡航で福沢は世界の最先端を学びました。
そのことについて福沢の自伝である”福翁自伝”に詳しく記載されています。
この渡米で福沢諭吉は現在も残る学問における足あとを残します。
英語の「V」の発音にウに濁点を付けたヴを用いました。
この英訳の感性が認められたのか、幕府の翻訳方に採用されます。
彼は旅の途中で感じた海外では当たり前のことを書籍「西洋事情」に書き記し、当時の日本で大ヒットを記録しました。
わずか2年で福沢諭吉の世界に対する見識は高まりました。
慶応義塾の創設
そして、1868年。
現代にまで名を残すあの学校が設立されます。
そう、慶應義塾です。
当時は大学という形式自体がなく、もともとあった蘭学塾を現在の港区に移し、開校しました。
この慶應義塾ですが、ある方式が日本初だったと言われています。
それは月謝制です。
この慶應義塾では月々のお金を授業料として塾生に払ってもらい、教室の運営などにあててたといいます。
その後は幕府の仕事を黙々とこなす日々が続きますが、王政復古の大号令をきっかけに平民になり、それ以降は教育に専念することになります。
最初に取り組んだのは慶応義塾の設立です。
三田藩や仙台藩、長岡藩など全国から藩士が集まり日夜勉学に勤しみました。
新政府から出仕の要請を受けたにもかかわらず、それを断り慶応義塾に力を入れた諭吉の教育に対する熱意は相当のものだったと言えるでしょう。
教え子が政府に入ることはあっても、自身は距離を置いていました。
彼が頑なに政府に入ることを拒んだのは、彼の信念のひとつである独立自尊の考えが影響していると考えられるでしょう。
また、独立した個人としてあり続けることで、自身の言動が制限されるのを嫌ったと見ることもできます。
加えて、政府に出仕することよりも若者を教育することのほうが重要だと考えていたことも大きな要因のひとつでしょう。
福沢諭吉の”学問のすすめ”は異例の300万部ベストセラー
さてここからは”学問のすすめ”についてのお話。
この学問のすすめは1872年から刊行が始まりました。
この時代では異例の300万部を超えるベストセラーとなりました。
少し前までは国民全体の識字率はそれほど高くありませんでした。
この学問のすすめがこれほどまでに売れたのは国民の識字率が向上したことも一つの要因なのかもしれませんね。
“学問のすすめ”の名言を解説!
福沢諭吉の独立自尊の信念は1872年の「学問のすすめ」で世に広まることになります。
さて、この学問のすすめで皆さんが知っているのはやはり、“天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず”と言った言葉でしょうか。
つまり、生まれながらに皆平等ということです。
この頃から、現代の基本的人権のような考え方を持っていたのですね。
福沢は、生まれながらにして皆平等なのにさまざまなところで差が出るのは学問の差だと学問のすすめでまとめていました。
皆さんが想像する学問のすすめはみんな平等、というところまでだと思います。
しかしその続きには勉強によって上下が生まれるということまで書いてあるのです。
確かに名前が”学問のすすめ”なんですから当然と言えば当然ですが。
“天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず”という教えは多くの人に受けとめられ、日本人の考え方に影響を与えました。
実践的な知識を学ぶべきだという彼の思想は日本の近代化を後押ししたのは間違いないでしょう。
その後も福沢諭吉の筆が止まることはなく、新聞「時事新報」では世論形成に影響を及ぼし、脱亜論では西洋文明を積極的に取り入れるべきだと主張しました。
慶應義塾ならではの慣習
ところでこの慶應義塾が元となって設立されたのが、ご存じ私学の最高峰、慶應義塾大学ですが、慶應ならではの慣習もあるそうです。
もともと慶應義塾を作ったのは福沢諭吉です。
なので、慶應義塾の先生といえば福沢諭吉しかありえないのです。
ですから例えば慶應義塾大学の教授は一般的な先生という呼称は用いられず、○○君と呼ばれるそうです。
他の大学とは少し違った慣習ですよね。
まとめ
明治時代に学問という観点から国を支え、現代にまで学びの礎を築き上げた福沢諭吉。
没後120年を経ても独立心と実践の精神はさまざまな分野で重要視されています。
年々、政治と経済の面で日本の影響力が弱まっているとも言われる今こそ、彼の強い実行力が反映された思想に立ち返る必要があるでしょう。
あなたの学びの助けになったのであれば幸いです。
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