明治維新の隠れた立役者といわれる、小松帯刀をご存じでしょうか。
小松帯刀(こまつたてわき)は、西郷隆盛や大久保利通と同時期に活躍した薩摩藩士です。
西郷や大久保らと比べると知名度こそ劣りますが、「維新の十傑」の一人とされています。
小松帯刀の生涯
天保6年(1835年)、薩摩国喜入の領主肝付兼善のもとに生まれた小松は、10代から学問の才能を発揮し、21歳で藩主・島津斉彬の小姓となりました。
その後、安政2年(1855年)に、薩摩国吉利の領主である小松清猷の養子となり家督を相続します。
安政5年(1858年)、島津忠義が藩主を継ぐと、薩摩藩の近代的西洋式工場群である集成館の事業や、貨幣鋳造の業務を担いました。
小松帯刀の明治維新での働き
文久元年(1861年)には長崎に行き、オランダ艦に乗船して軍艦の操作や水雷について学びます。
この知識をもとにして行われた、水雷を爆発させる実演などが評価されて、小松は島津久光の側役になった。
翌年には島津久光のもと御改革御内用掛に任命され、藩政改革に着手しました。
大久保利通は当時、彼の配下のひとりでした。
さらに久光によって、有能な小松は家老に大抜擢されます。
このとき、わずか27歳。
薩英戦争
幕末の動乱のなか、文久3年(1863年)に勃発した薩英戦争。
小松は水雷を鹿児島湾に並べるなどして奮闘します。
薩英戦争後は、集成館の再興に尽くした一方で、朝廷や幕府を取り持ち薩摩藩のパイプ役として活躍しました。
小松帯刀と坂本龍馬のつながり
京都で小松は、土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と出会い、交流を深めます。
池田事件後、勝海舟の失脚により、海舟の塾生だった坂本らが行き場を失ったのを知った小松が、大坂の薩摩藩邸に彼らを引き取ったのがきっかけでした。
小松は、龍馬の亀山社中(のちの海援隊)設立を支援したり、龍馬の新婚旅行の最中には、彼と妻のおりょうを薩摩の屋敷に泊めたりと、公私ともに龍馬と親しくつきあいます。
さらにその後は、坂本龍馬や亀山社中が仲立ちとなって、薩摩と長州のつながりが深まりました。
薩摩藩のパイプ役
亀山社中メンバーの口利きで、長州の井上馨と伊藤博文が武器を求めて小松のもとを訪れます。
小松は、彼らをスコットランドの商人・グラバーへと繋げました。
当時、幕府の監視により、武器の調達がうまくできなかった長州藩に対し、米を薩摩藩に渡すことを条件に、小松は武器の調達を引き受けます。
そして、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が上京し、慶応2年(1866年)、京都の小松邸にて、薩長同盟が結ばれたのでした。御花畑屋敷と呼ばれた小松邸は、天皇家にもっとも近い公家である近衛家の別邸で、幕府も干渉しづらかったからです。
慶応3年(1867年)に行われた大政奉還の際には、薩摩藩側の代表として、徳川慶喜に将軍辞職と大政奉還を迫ります。
小松帯刀の病と最期
このように、明治維新に大きな役割を果たした小松でしたが、明治に入るころには病魔に侵されます。
明治政府では要職に就いたものの、幼少期から病弱であったことは変わりませんでした。
明治元年(1869)には、切除できない腹部の腫瘍を患います。
明治2年(1869年)5月には、領地を返上し明治政府を退職。
その年の9月には、明治維新の手柄で賞典禄1,000石を得たたものの、腫瘍が悪化。
翌明治3年(1870)7月に35歳の若さで病死しました。
現在は、小松家の領地であった、鹿児島県の小松家歴代墓所に眠っています。
まとめ
こうして、明治に入ったばかりのころに亡くなったことは、小松の功績に対する知名度の低さに影響していると思います。
幼いころから体が弱くとも勉学への向上心を持ち、弁舌巧みかつ寛容な明るい人柄で、人望も厚かった小松帯刀。
自分の領地の百姓にも分けへだてなく気さくにふるまい、領民思いで慕われたといいます。
明治新政府でも、その手腕を発揮することが期待されていたでしょう
あまりに若すぎる死は惜しまれますが、激動の明治維新は小松帯刀を抜きにしては語れず、彼の功績は現代の日本の礎として輝き続けています。
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