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西郷隆盛は何をした人?生涯や3人の妻について解説!

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西郷隆盛
あまね

あなたは「薩摩」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか?

「さつまあげ」「さつまいも」「焼酎」・・・?

いろいろと薩摩に関するものはありますが、私は「西郷隆盛」を思い浮かべます。

「歴史上の人物で1番好きなのは誰?」と問われれば、私は迷わずに西郷隆盛と答えるでしょう。

私事ですが、私の母の出身地は福島県会津若松市です。
歴史上の成り行きを振り返ってみれば、ご存知のとおり本来であれば薩摩藩出身の西郷という人物は敵対すべき存在。

でも彼の生涯を調べれば調べるほど惹かれるものがあり、かつては彼のルーツを辿りたくなり、鹿児島県まで旅行に出向いたこともありました。

目次

西郷隆盛は、幕末に活躍した武士

東京・上野公園のシンボルとして建てられた西郷隆盛像を思い浮かべる方も多いのではないしょうか。

では、そもそも西郷隆盛とはどんな人物だったのでしょうか。
顔や名前は知っていても何をしたか知らない方も少なくないのではないでしょうか。

西郷隆盛がしたこと「明治維新」での功績

西郷隆盛の版画
西郷隆盛の版画

では西郷隆盛とは具体的に何をした偉人なのでしょうか。

キーワードは「明治維新」です。
明治維新とは幕末から明治政府が樹立するまでの間に起きた政治的革新のことを指します。
つまり当時の幕府を倒して、新しい国を作る動きのことです。

そして西郷隆盛こそがその明治維新の真っただ中で活躍した人物なのです。

西郷隆盛の生涯

西郷隆盛の肖像画
西郷隆盛の肖像画

では西郷隆盛の生い立ちを説明します。

西郷隆盛と大久保利通は幼なじみの関係

薩摩藩の武士の息子として生を授かった西郷隆盛は、幼なじみの「大久保利通」がいました。
そう、のちに討幕をともにすることになる盟友の大久保利通です。
既に幼少期からともに過ごしていたんですね。

怪我がもとで学問に励むようになる

そんな幼少期に腕をけがしてしまい、刀を振ることが難しくなってしまいました。
それをきっかけに西郷隆盛は学問に励むようになりました。

その後、青年となった彼は役所に務めることになります。

島津斉彬との出会い

島津斉彬
島津斉彬

そこで彼は、薩摩藩第11代藩主「島津斉彬」と出会います。
島津は改革を行い、薩摩藩を軍事大国へと押し上げました。

西郷隆盛は島津のそばに仕え、尽力しました。

西郷隆盛が島流しされたのはなぜ?

その後、「安政の大獄」という開国反対勢力を弾圧する動きが始まります。
隆盛は反対勢力と関わりがあった僧侶をかばったため、島流しの罰を受け奄美大島に流されてしまいます。

復帰

その後、薩摩藩から呼び出す声が上がり戻ってきた西郷隆盛は藩の重要人物になりました。

そしてここから西郷隆盛の倒幕への動きが始まります。

西郷隆盛と勝海舟の出会い

勝海舟
勝海舟

このとき西郷隆盛は「勝海舟」と出会います。

このころ、長州藩が倒幕を試みていたものの「桜田門外の変」などで藩はボロボロの状態だった。

薩長同盟が結ばれる

薩摩藩も幕府から長州藩を叩くために薩摩藩に人員を要請したが、すでに倒幕の意思を固めていました。
このときに結ばれたのが「薩長同盟」です。

長州藩と薩摩藩が手を結び、いよいよ倒幕というときに幕府も手を打ちます。

「大政奉還」を朝廷に申し出ました。
大政奉還を行うことで政権を朝廷に返し、敵の目的をなくしてしまおうと思い立ちました。

しかし薩長の決意は揺らがず、実質的リーダーは徳川幕府だと考え討幕を続けることになりました。

西郷隆盛が政府を去った理由は?

薩摩藩の首脳たちは幕府と公家を追い出し、新しい力ずくで朝廷を占拠し全く新しい政府を作りました。

しかし西郷は失望しました。
幕府を倒し、新政府を打ち立て大儀をなしたが、新しい日本や武士は西洋文化を取り入れ皆富や権力を求めるようになります。

これは西郷の求めていた日本とは違ったものでした。

西郷隆盛の生涯で大きな出来事はざっとこんな感じでしょう。

西郷隆盛の雑学

あまね

さてここからは、西郷隆盛のちょっと面白い雑学を紹介します!

名前が9回も変わった!?

西郷隆盛は名前が9回も変わっているそうです。
昔は名前が変わることがよくあったのでしょうか?

西郷隆盛にはあだ名があったそうです。
それは「ウドサァ」です。

鹿児島弁で大きい人という意味だそうですよ!
身長180cm、体重が100kg越えの巨漢だった西郷隆盛にぴったりのあだ名ですね。

西郷隆盛は犬でダイエット!犬の名前は?

西郷隆盛とツン像
西郷隆盛とツン像

西郷隆盛が犬を飼い始めた理由がちょっと面白いです。
それはずばり、ダイエットです。

晩年の西郷隆盛は甘いものや油ぽいものが大好きで肥満気味でした。
医者にダイエットをするために犬を飼うことをオススメされ飼いはじめました。
西郷隆盛は日本で初めてダイエットを始めたといわれています。

犬の名前は「ツン」という薩摩犬です。

ちなみに西郷像の犬にはモデルがいます。

銅像を作る際はすでにツンは亡くなっていたため、薩摩出身の軍人である仁礼影範が飼っていた「サワ」という犬がモデルになりました

西郷隆盛の3人の妻

西郷隆盛には3人の妻がいました。
つまり2回の離婚を経験しています。

1人目の妻、須賀

須賀は、薩摩藩士伊集院兼善の娘です。
西郷の兄弟たちの世話をしていましたが、父に呼び戻され結婚していたのは2年でした。

2人目の妻、愛加那(あいかな、ありかな)

愛加那の肖像写真
愛加那の肖像写真

西郷隆盛が奄美大島に島流しされたときに結婚しました。

愛加那との間に長男の菊次郎が誕生します。
そして2人目を身籠ったときに西郷は薩摩藩に戻ることになり、愛加那を連れていくことはかないませんでした。

3人目の妻は、糸

糸

糸は薩摩藩の中心人物となった西郷隆盛を支え、3人の子どもを生みました。

また、愛加那との間の2人の子供も引き取り育てました。

鹿児島での西郷隆盛の圧倒的な人気

私は仕事上の繋がりで鹿児島県の方々と交流する機会がありました。

そこで西郷の話題が挙がったこともあり、やはり西郷隆盛という存在は特別なものであることは間違いないでしょう。

歴史上で鹿児島の英雄といえば、明治維新を切り開いた大久保利通という人物も同時に存在しています。
遺してきた成果からいえば西郷と同等であるかもしくはそれ以上と言っても過言ではありません。

あまね

でも「人気」という観点から見れば、大久保よりも圧倒的に西郷に軍配が挙がるということは言わずもがなですね。

当初、西南戦争で故郷の鹿児島(旧薩摩)の思いを背負って戦い散った西郷とそれに対抗した政府側の大久保という構図があったからこその地元民の西郷愛の大きさというものを想像していました。

でも、その生涯を追えば追うほど、単純にそれだけが人気の理由ではないと感じさせられるます。

そして西郷の人気は地元の鹿児島のみならず、もっと広い範囲で愛される人物であることが分かってきます。
それは身内のみではあらず、敵対する勢力の者からも彼は一目置かれていたことが様々なエピソードから伺えるのです。

西郷隆盛の人情あふれる性格に魅了された周囲の人たち

なぜそうなのかというところであるが、一言で表すのであれば彼は情を人一倍持ち、情で生き抜いた軍人であり、政治家であったということでしょう。

幕末の動乱期に舵取りひとつ誤ればどう危険な方向に転ぶかわからなかった状況で、西郷がそのキーマンとして重要な役割が果たせたのは、人を惹き付けるその人情があったからこそ。

薩長同盟で発揮された西郷隆盛の情熱

犬猿の仲だった薩摩と長洲を結びつけた功労者は坂本龍馬と云われていますが、それが実現できたのも西郷と龍馬の打ち解けた関係性があったからこそでしょう。

更には大政奉還後に江戸城の無血開城が実現したのも、立場的には敵対する幕府方の勝海舟が交渉を通じて西郷に一目置く気持ちが芽生えたからこそであったと思われます。

無駄に血を流すことは避けたい、という互いの強い情熱であったと想像できます。

戊辰戦争での西郷隆盛の温情

幕府旧勢力の一掃の目的に東北、越後の諸藩と戦いを行っていた新政府軍。
西郷の軍勢は越後、庄内方面に進軍していました。

この戦いで庄内藩は降伏することになったのだが、これに対しても西郷の温情で寛大な処置に収め、庄内地方の民は今に至るまで感謝の意を持っているというエピソードも有名ですね。

主張が異なるメンバーにも愛された西郷

明治政府の発足後は議員に属していた西郷は数名の同士と共に征韓論を主張。
命を落とすリスクを承知しながらも自らが大使として朝鮮半島に出向く意思を示した出来事がありました。

これに反対したのは大久保利通をはじめとする欧州視察から帰国したメンバーでした。

海外の発展ぶりを目の当たりにした大久保らが海外の地を容易に制圧できるものではないと考えるのは自然な流れでしょう。

また、西郷を失いたくないという、個人に対する思い入れというものも彼らは抱いていたようで、これも西郷隆盛ならではの逸話だなと深く感じられます。

西南戦争は西郷隆盛の意志だったのか?

最後に触れないわけにはいかないのが、日本で最後の内戦となった西南戦争の件です。

征韓論の主張に敗れた西郷は故郷の鹿児島に帰郷しますが、同時に西郷を慕って上京していた旧薩摩藩の多数の軍勢も西郷について行く形で同じく帰郷します。
そしてこのメンバーが中心となり鹿児島に私学校が設立される。

そんな折に明治政府から廃刀令が出されます。
これは武士としての身分、特権を剥奪されることを意味します。
倒幕のために時には命懸けで明治維新に貢献してきた諸藩の武士たちには非情とも云える仕打ちであったため、各地で反乱が起きました。

鹿児島も例外ではなく、私学校の武器倉庫の武器撤去をめぐり、政府側の関係者との衝突をきっかけに戦争状態に突入。
そして西郷はこの戦争の指揮を取らざる追えない状況となります。

この戦は西郷の本意ではなかったのかもしれない。
悪く云えば担ぎ上げれただけなのかもしれない。

ですが、「西郷さんのためなら命を捨てても構わない」という覚悟をもった同志たちを前にして、決して退くような人ではなかったでしょう。

東郷平八郎はイギリス留学中だったため参戦していせんが、もし日本に残っていたら西郷軍に身を投じていただろうと言われていますね。

まとめ

いかがだったでしょうか?
私が好きな西郷隆盛に関するエピソードです。

西郷は、西南戦争で悲劇的な最期を迎えることになりました。
彼の死は対峙した新政府側も後に西郷に勲章を授けるほど、彼には敬意の姿勢を持っていました。

情で動く、動かされてしまうトップは必ずしも評価される存在ではないのかもしれません。
ですが私はそのような人がどうしても嫌いになれない。

そう、西郷隆盛のような人は嫌いになれないし、そのような人になりたいなといつも思っています。

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