私が前田利家を好きになったきっかけは2002年の大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』がきっかけでした。
織田信長や徳川家康、豊臣秀吉など有名な武将はたくさんがいますが、織田家の一家臣だった前田利家がどのように成り上がって、後に100万石の大大名にまでなった前田家の祖になったのか興味を待ちました。
前田利家の性格は?
性格は律儀実直、人から頼まれたことを断れないたとえ、無茶なことだとしても自分より上の立場にも意見をしたと言われています。
ゆえに回りからの人望が暑く若い武将からは兄者と慕われています。
豊臣秀吉とも若い頃から同じ織田家の家臣としてライバル関係にもあったそうです。
若い頃から血気盛んで歌舞伎ものなどと呼ばれ血の気の多さも目立っていたようです。
前田利家の愛妻家エピソード
奥さんは“まつ”と呼ばれた織田信長にも一目おかれた人物で、おしどり夫婦としても有名だったようです。
まつには頭が上がらず、当時にしては珍しく奥さんの意見をよく聞いていたとも言われています。
回りの武将は側室と呼ばれるたくさんの奥さんをめとっているのが当たり前の時代。
確かに利家にも側室はいましたが、正室のまつを大切に想い、2人で前田家の発展に努めた点が共感できます。
前田利家の実直で男らしい性格と妻を大事にする姿勢に好感を持っています!
前田利家の性格を表すエピソード
前田利家は、戦で困窮に陥ったその土地の大名などにお金を貸して返さなくてもよいと困った人に使ってあげなさいとお金を貸していたそうです。
その後お金を返せない大名に取り立てをしたことがないそうです。
この事からも男気が溢れる逸話など立派や人物だったと垣間見れます。
戦では織田信長の家臣の中で赤母衣衆という親衛隊で長く勤めいていて、第一線で活躍していました。
ところがあることがきっかけで一度は戦場から遠ざけられたとも言われてます。
ですが、自腹で戦に参加して自ら手柄をあげ徐々に信頼を得ていったと言われています。
前田利家と豊臣秀吉の関係は?
その後の本能寺の変から豊臣秀吉との対立が目立っていくのですが若い頃から織田家臣として切磋琢磨していた2人にとって苦悩や葛藤があったでしょう。
さらに親父様と呼んでいた自分の親同然の柴田勝家と豊臣秀吉の対立が深まるなかどちらかにつかなければならない状況など苦悩したことでしょう。
利家はきっと勝家と秀吉の戦いに心痛めたでしょうね。
私は、自分の大切な人同士の争いなんて見たくないです…。
結果、豊臣秀吉の家臣になるわけですが、若い頃からの関係もあって秀吉にとって信頼のおける友人兼家臣になるほど関係が深まっていきました。
豊臣政権の五大老となった前田利家
その後は五大老と呼ばれ上杉景勝、徳川家康、毛利輝元、宇喜多秀家と並んで豊臣政権を支えていきます。
他の大名は野心や野望があり徳川家康などは豊臣の次は自分が天下人になると言った明確な野望があったのですが前田利家は文字通り最後まで豊臣の支えになることを選んでいます。
このようなところが律儀実直と言われる点ですし、魅力にも感じます。
遺言書など自分が死んだ後のことまで考えて、長男である利長に細かく指示を出していたことからも自分の家や今後の豊臣家のことを案じていたのでしょう。
このように男らしい面と愛妻家な点を併せ持つ前田利家という人物に魅力を感じる人も多いのではないでしょうか。
若い頃から歌舞伎もの呼ばれ血気盛んな一面もあり曲がったことが嫌い。
時には上の立場の人にも意見をいう。
一方で義理や人を大切にし奥さんを最後まで愛していた。
まとめ
自身の家である前田家のことを考えるのはもちろん、友人である豊臣秀吉の遺言を守ろうとした。
このような人物に興味を抱いても不思議ではないでしょう。
戦国の時代はいつどうなってもおかしくない時代です。
つい武功を挙げることが1番となり、周りの人たちや家族を思いやれる人は少ないかもしれません。
その性格に当時の回りの人たちは信頼して加賀100万石という歴史のなかに名前まで残っていく大大名にまで上りつめていったのでしょう。
歴史人物と言ったら織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などがスポットライトを浴びがちですが、前田利家のような人物も広く親しまれるとうれしいです。
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