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お市の方の夫は誰?天下一の美人が辿った悲劇の生涯と最期

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天下一の美人、お市の方

時代を超えて輝く女性の物語、それが「お市の方」の生涯です。
彼女は日本の歴史において、名だたる武将・織田信長の妹として、また、悲劇的な最期でその名を刻みました。
そして、お市の方は「天下一の美人」とうたわれています。

でも、彼女の物語は単なる権力の象徴だけではありません。
お市の方は、愛と忠誠、そして運命に立ち向かう強さを示し、その人生は数多くの逆境と戦いが詰まった壮大なエピックです。

今回は、お市の方の感動的な生涯をたどり、なぜ彼女が日本史上不朽の存在となったのか、その真実に迫ります。
彼女の人生は、勇気、愛情、そして歴史の中で輝き続ける女性の魅力に満ちています。

目次

お市の方の生涯

お市の方

上がお市の方の肖像画です。
色白で涼やかな感じで、相当な美人ですよね。

身長もすらりと高く、160㎝とも165㎝とも言われています。

生まれ

お市の方の生年は定かではありませんが、天文16年(1547年)とされることが多いです。

織田信秀


尾張の戦国大名、織田信秀の娘として生まれました。

織田信長


お市の方の兄は、日本人なら必ず名前を聞いたことがあろうという有名人「織田信長」です。

天文21年(1552年)3月に父の信秀が病死。
まだ幼いお市の方は、兄たちの庇護を受けて成長したと考えられます。

1度目の結婚

永禄7年?10年?(諸説あり)お市の方は、北近江を治める浅井長政(あざいながまさ)と結婚します。

美濃の斎藤龍興を挟み撃ちにしている織田信長と浅井長政
美濃の斎藤家を挟み撃ちにする信長と長政


この婚姻の目的は、美濃の斎藤家を信長と長政で挟み撃ちにするため、とも信長が上洛を果たすための道を確保するため、とも言われています。

本拠地を小牧山城から岐阜城(旧稲葉山城)へと移した織田信長
本拠地を美濃の岐阜城に移した信長

永禄10年(1567年)、信長は美濃の斎藤氏を滅ぼし、本拠地を小牧山城から岐阜城(旧稲葉山城)へと移しました。

お市の方は長政との間に3人の娘にも恵まれ、政略結婚にも関わらず仲も良かったとされていますが、時は戦国時代。
幸せな時期は長くは続きませんでした。

元亀元年(1570年)、信長と長政の同盟関係は突如崩れ去りました。

越前の朝倉義景を攻める織田信長
越前の朝倉義景を攻める信長

なぜ長政が信長との同盟を破棄したのかは、いろいろな説があって真実は未だ分かっていません。

  • 浅井家と縁の深い朝倉家を攻めないようにと事前に約束したにも関わらず、長政に何の断りもなく信長が朝倉家を攻めた
  • 信長にやがては自国も攻め滅ぼされると危機感を抱いた
  • 父の久政が信長嫌いで、朝倉方につくよう長政は説得された
  • 領地拡大のため

などの説があります。
この中のいずれかの理由かもしれませんし、複合的な問題だったのかもしれません。

信長が浅井家と縁の深い朝倉家を攻めたことから、長政は苦慮の末、朝倉方に付くことに決めます。

そこから織田家と浅井家の争いは続きます(姉川の戦い、志賀の陣、小谷城の戦い)。

あまね

夫と兄が争う…。
お市の方の気持ちを考えると胸が痛みますね。

天正元年(1573年)9月、浅井家は信長に攻め滅ぼされます。
お市の方は、長政と共に自害したいと願いましたが説得されて3人の娘たちと一緒に城を出ることを決意。
織田家へと戻りました。

お市の方の有名なエピソード

ここでお市の方の有名な小豆袋のエピソードを紹介しましょう。
これは実話ではなく後世の創作だとする研究者がほとんどですが、映画やドラマでもよく登場するシーンなので紹介します。

信長が越前の朝倉義景のもとへ侵攻していたときのこと。
長政が信長に背くことを決めました。

夫と兄の間で板挟みのお市の方、夫には従いたいが信長の命も見過ごせない…、そんな状況の中、信長への陣中見舞いとして小豆を送ったのでした。

小豆は袋に入れられ、両端が縛られていました。
それを受け取った察しの良い信長は、浅井と朝倉から挟み撃ちにされることを悟るのでした。

信長は妹の知略を褒め称え、その心遣いを有難く思うのでした。

あまね

このようなエピソードです。

創作の可能性が高いそうですが、心に響くストーリーなので現在まで伝わっているのでしょうね。

織田家へ戻ったお市の方の3人の娘たち

小谷城から脱出したお市の方の3人の娘たちは、織田家へと戻ります。

お市の方の叔父にあたる織田信次の守山城で1年ほど暮らしたようです。
その後、信長の本拠地岐阜城へと移ります。

あまね

お市の方がまだ20代と若かったにも関わらず、勝家の話が持ち上がるまで再嫁しなかったのは浅井家を滅ぼした信長に引け目があったからでしょうか?

2度目の結婚とお市の方の最期

2度目の結婚は、信長の死後の天正10年(1582年)、織田家の重臣柴田勝家(しばたかついえ)とでした。

本能寺の変での信長の急死。
後継者問題で揺れ動く、織田家中の結束を高めるためのものでした。

お市の方は、3人の娘と一緒に勝家の居城北ノ庄城に移り住みます。

勝家は亡き主君の妹であるお市の方を大切にし、3人の娘たちとも打ち解けたようです。

しかしこの2度目の結婚も長くは続きませんでした。

羽柴秀吉と対立する柴田勝家

羽柴秀吉(はしばひでよし)と勝家の対立が深まる中、翌年、天正11年(1583年)4月、勝家は秀吉に攻め滅ぼされたのでした(北ノ庄城の戦い)。

お市の方も勝家と共に自害します。
たった数ヶ月共に暮らしただけなのに勝家に殉じたということは、夫婦仲は良かったでしょうね。

そしてお市の方の3人の娘は秀吉に託されたのでした。

お市の方の家系図

あまね

家系図つくってみました。
つたない画像ですみません💦

お市の方の家系図

お市の方は浅井長政との間に3人の娘を儲けています。

そして、長女茶々の息子である秀頼と三女江の娘である千姫が婚姻関係です。
この2人はお市の方の孫にあたりますね。

また、千姫は徳川家康の孫でもあります。

お市の方の2人の夫

上にも書いた通り、お市の方は2回嫁いでいます。

1人目、浅井長政(1545年~1573年)

浅井長政

北近江を治める浅井家の3代目当主。

詳しいことはこちら↓↓
準備中

2人目、柴田勝家(1522年?~1583年)

柴田勝家

織田家の宿老。

詳しいことはこちら↓↓
準備中

お市の方の3人の娘たち

お市の方は浅井長政との間に3人の娘に恵まれました。
この浅井三姉妹も有名ですね。

長女、茶々(淀殿)(1569年?~1615年)

茶々(淀殿)

秀吉の側室となり、秀頼を生みました。
徳川家康と敵対し、大阪夏の陣で秀頼とともに自害しました。

詳しいことはこちら↓↓
準備中

次女、初(1571年?~1633年)

初

いとこに当たる、若狭小浜藩の藩主京極高次と結婚。
豊臣と徳川の対立の間に立ち、講和に尽力しました。

詳しいことはこちら↓↓
準備中

三女、江(1573年~1626年)

江

江戸幕府の2代将軍、徳川秀忠の正室。
3代将軍家光や後水尾天皇の皇后になった和子など子宝に恵まれました。

お市の方の血は、江を通じて現在の皇室にまで続いています。

詳しいことはこちら↓↓

お市の方の子孫。現在どうなっている?

お市の方に3人の娘がいました。
三女、お江を通じてお市の方の血筋は現在も続いています。

長女の淀殿(茶々)は、豊臣秀吉との間に鶴松と秀頼を授かりました。
ですが、鶴松は夭折、淀殿と秀頼は大坂夏の陣で亡くなりましたので、淀殿の血筋はここで途絶えます。

次女のお初は、京極高次と結婚したものの子どもに恵まれなかったので、こちらも途絶えます。

そして、三女のお江です。
生涯で8人もの子どもを生みました。

有名なところだと、羽柴秀勝との間の子ども完子の子孫が大正天皇の后となり、昭和天皇を生んでいます。
ですから、お市の方は現在の皇室の遠い先祖ということになりますね。

【まとめ】あまねの感想

お市の方の生涯を追ってきましたが、いかがでしたか?
私は、政略結婚に翻弄されながらも、その与えられた環境の中で強く誠実に生きていくお市の方の姿に感銘を受けました。

長政を亡くし、織田家で娘たちと暮らす日々はどんな気持ちで生きていたのでしょうか?

北ノ庄城の戦いで、娘たちと共に城から出て生きるという選択肢もあったにも関わらず、柴田勝家に殉じたところに儚さを感じます。

平和な現代を生きる私には、お市の方の真情は到底想像し得ないですが、これを書いている今は涙が溢れてきそうな気持ちです。

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