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島津家久(島津4兄弟の末っ子)最強伝説!名将の戦術と生涯を解説!

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島津家久

日本全国で群雄割拠の戦乱が続いた戦国時代。

数多の戦国大名が死線を超える戦いを行った中でも、薩摩を地盤とした島津家の四男であった島津家久の武功は他に比類なきほどに秀でていたと言えるでしょう。

目次

優秀な島津4兄弟の末っ子である家久

1566年に島津家は4兄弟の長兄である義久が第16代当主の座に座り、その元で次男の義弘、三男の歳久、四男の家久といういずれも優秀な弟たちが補佐をする形で強力な家臣団を作り上げていました。

島津4兄弟いずれも能力に秀でていた武将たちでしたが、仲は良く跡目争いなどは起きませんでした。

ただし四男の家久のみは上の兄3人と異なり、先代である第15代当主であった島津貴久の正室の子ではなく、ただ一人側室の子でした。

年齢も長男の義久とは14歳、次男の義弘とは12歳、三男の歳久とは10歳の開きがあり、年齢・身分ともに上の兄3名とは幾ばくかの隔たりがあったことは否めません。

ですが家久は自らが参戦した戦いにおいて、対峙した龍造寺隆信、長宗我部信親、十河存保と言う3名もの大名格の敵武将を討ち取る大武勲を挙げており、ここまでの戦果は戦国時代と言えど他にはほとんど例を見ません。

織田信長が桶狭間の戦いで、大軍で優勢と見られた今川義元を討ち取り、華々しく天下に名を挙げたことは良く知られていますよね。

しかし織田信長とてこのわずか1例しか直接の戦闘で敵の総大将格を討ち取ったことはありません。

あまね

島津家久が総大将各を3名も討ち取ったと言う実績は、いかに稀有なことなのかはお判りいただけるでしょう✨

島津家久の生涯

島津家久の誕生

島津家久は、天文16年(1547年)に生まれました。
父は第15代当主の島津貴久で、母は側室で本田親康の娘でした。

島津家久の初陣

わずか15歳のときの1561年、大隅の肝付氏との初陣において136もの敵の首級を上げる大戦果を挙げており、非凡な戦いの才を秘めていたことが窺えます。

「釣り野伏せ」で猛将・龍造寺隆信を打ち取る大戦果!

そんな家久の名が一気に戦国の世に広まった戦いこそ、1584年のこと。
自身が37歳のときの沖田畷の戦いであり、当時九州北部で一大勢力を築いていた龍造寺方との決戦でした。

このとき家久は龍蔵寺方から離反した有馬晴信への救援要請に島津家が応えて送り出されたもので、攻め寄せる龍造寺方を島原半島で迎え撃つ戦いを行いました。

諸説あるもののこのときの龍造寺方の兵力は、少なくとも島津家久・有馬晴信の軍勢の3倍以上にも上ったと目されます。
家久は寡兵にも関わらず戦場で直接、「肥前の熊」の異名で恐れられた猛将・龍造寺隆信を見事に討ち取り、島津方に大勝利をもたらしました。

このとき家久が用いた戦術は島津家が得意としていた「釣り野伏せ」であったと伝えられています。

この戦術は大まかに言えば、味方の兵を左・右・中央の3方に分け、まず中央の部隊が交戦を行い、敗走すると見せかけてこれを追撃に追ってきた敵を、左右に潜ませた伏兵によって攻撃、中央もそのタイミングで逆襲に及ぶものでした。

これを沖田畷の戦いで見事に成功させた島津家久の活躍により、以後島津家は九州をほぼ制覇するところに大手をかけました。
冒頭でも述べた通り、敵の総大将である大名格の武将が戦場で討ち取られる事例は極めて少数で、しかも自身側が寡兵でそれを実現した例は本当に稀な出来事です。

戸次川の戦いで、長宗我部信親、十河存保も討ち取る

しかも家久の大戦果はこれに留まらず、その2年後の1586年に戸次川の戦いで、更に長宗我部信親、十河存保の2名の戦国大名格の武将を、やはり得意の戦法である「釣り野伏せ」を用いて討ち取ることにも成功します。

戸次川の戦いは、九種制覇をほぼ成し遂げつつあった島津家に対し、豊後の大友家が中央を押さえた豊臣秀吉に臣従し、援軍を要請したために起こった戦いでした。

豊臣方は古参の直臣である仙石秀久を軍監に据えて、それまでに服従させた四国勢の長宗我部元親・信親父子と十河存保を配下に与えて九州への派兵の先遣隊として送り込んでいました。

先遣隊なので豊臣方のこのときの兵数は6,000名ほどと確かに小規模ではありましたが、ここでも家久はまたしても「釣り野伏せ」を用います。
手柄を挙げようと血気に逸っていた敵将・仙石秀久の考えを十二分に理解したと思われます。

その上でそうした考えを逆に利用した頭脳戦であったとも評されており、家久の類まれなる戦術の手腕が窺えた戦いであったと言えるでしょう。

島津家久、逝く

残念ながらこの稀代の手腕を持った家久は、この戸次川の戦いの翌年の1587年に居城であった佐土原城で急逝しましたが、死因についてははっきりと判明はしていません。
享年41。

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