最強の戦国武将は誰か?
織田信長や武田信玄に並び挙げられるのが上杉謙信です。
この記事では私利私欲のためではなく、義のために戦った上杉謙信の生涯を紹介します。
上杉謙信の誕生
生まれ
1530年、越後守護代長尾為景(ながおためかげ)の四男として誕生しました。
生まれたのは、越後国(現在の新潟県)の春日山城で幼名は虎千代(虎千代)。
元服後は長尾景虎(ながおかげとら)と名乗りました。
この記事では「上杉謙信」と統一します。
上杉謙信の初陣
1540年、父の為景が長男の長男晴景(ながおはるかげ)に家督を譲ります。
当時の越後国は内乱が続いており、緊張感に包まれていました。
晴景は兄弟で協力して内乱を収めようと謙信を栃尾城の城主に任命します。
1542年になると父の為景が死亡、内乱はさらに激化します。
そして1544年、近隣の豪族が反乱を起こし、栃尾城に攻めてきます。
ここで謙信は少ない城兵を二手に分けると、敵本陣の背後に奇襲を仕掛けます。
これが決め手となり、謙信は15歳ながら初陣を勝利で飾ります。
1548年になると、晴景が家督を謙信に譲り、謙信は19歳という若さで越後守護代になります。
上杉謙信 VS 武田信玄
1552年関東菅領の上杉憲政(うえすぎのりまさ)が北条氏康(ほうじょううじやす)に敗れ、謙信を頼りま
さらに翌年、甲斐国(現在の山梨県)を治めていた武田信玄は、領地を広げるため信濃国(現在の長野県)に侵攻します。
ピンチになった信濃国の村上義清(むらかみよしきよ)も謙信に助けを求めます。
謙信は2人を受け入れ、武田信玄と北条氏康と争うことになります。
この武田信玄との戦いが「川中島の戦い」です。
川中島の戦い
この川中島の戦いは12年間続いた長い戦いで、その戦いは大きく分けて5回行われました。
1回目の川中島の戦い
謙信は村上氏の領地奪還のため信濃へ進軍します。
信濃国の川中島で武田軍と上杉軍は対峙します。
結果は引き分け。
村上氏の領土奪還には失敗しますが、武田軍の進軍を阻止します。
2回目の川中島の戦い
武田信玄は信濃侵攻のため今川氏・北条氏と甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくぐんじどうめい)という同盟を結びます。
1555年に武田信玄は再び信濃に侵攻、謙信と2度目の戦いが始まります。
戦いは200日間と長いこう着状態となりました。
謙信は武田信玄に対し、奪った信濃の領地を返す約束を結ばせ、兵を引き上げます。
3回目の川中島の戦い
謙信は武田信玄を討つため信濃国に進軍しますが、武田信玄は謙信を避けたので決着はつきませんでした。
4回目の川中島の戦い
1561年謙信は北条氏康を討つために拠点である小田原城に進軍しますが、城を落とすまでとはなりませんでした。
武田信玄は謙信が小田原城に進軍してる間に川中島へ侵攻します。
急いで戻った謙信も川中島へと侵攻し、両者は開戦します。
謙信の軍は武田軍の軍師山本勘助・信玄の弟である武田信繁を討ちますが、謙信たちも被害が大きくこの戦いは引き分けに終わります。
この戦いでの死者数は上杉軍が3000人以上、武田軍は4000人以上と多くの死傷者を出す大規模な戦いになりました。
5回目の川中島の戦い
1564年謙信は武田信玄の飛騨国(現在の滋賀県)への侵攻を防ぐため川中島へ進軍します。
武田信玄は決戦を避けたので、両者睨み合いで終わりました。
上杉謙信 VS 織田信長
手取川の戦い
1576年、謙信は長らく争っていた一向宗の石山本願寺と和睦しました。
当時の石山本願寺は信長と戦っており、謙信も天下統一のため北陸地方に進出し始めた信長を警戒していたので利害が一致しました。
そして1577年、能登地方(現在の石川県)で両者は対峙します。
まず謙信は七尾城に攻め入りますが、守りが堅くなかなか攻められません。
ここで謙信は裏から城内部で反乱を引き起こさせ、七尾城を降伏させることに成功します。
織田軍の援軍が到着しましたが、長尾城から進軍していた上杉軍に奇襲を受けます。
織田軍は多くの死傷者を出し、謙信の圧勝でこの戦いは終わりました。
上杉謙信の最期と死因
手取川の戦いで勝利した謙信は春日山城に帰還しました。
1578年、次の出陣を控えていた謙信でしたが厠の前で倒れ、その4日後に帰らぬ人になってしまいます。
死因は脳溢血でした。
謙信の死亡後、上杉家では後継者争いで争いが起こり上杉家は衰退してしまいました。
まとめ
謙信は49年という人生で70戦以上戦い、ほとんど負けたことがありません。
まさに最強の名に恥じない武将です。
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