武士としてよりも画家としての方が有名かもしれませんね。
今回は、渡辺崋山に迫ります。
渡辺崋山の生涯
渡辺崋山は江戸時代後期に田原藩士の父、渡辺定道と母、栄の下に生まれました。
崋山が生まれた頃の田原藩は財政難にあり、また父親の定道が病気だったために貧しい幼少期を過したとされています。
渡辺崋山の有名なエピソード
そして、ある日、父親のために薬を買いに行った崋山は岡山藩の大名行列との間でトラブルになり、その家来にぼこぼこにされました。
そして崋山が起き上がると、籠には同年代くらいの若君が乗っていて、身分の違いによる不平等を感じ、不平等に対する怒りを覚えました。
学問に奮起
この経験が起因して、後に崋山は学問に奮起するようになります。
そこで、鷹見星皐や佐藤一斎、松崎慊堂、佐藤信淵から儒学や農学を学びました。
さらに藩の海防を担当していた崋山は西洋の文化や歴史、兵学も学んだとされています。
学問を志していた崋山でしたが元々好きだった絵を描くことも学問の傍らでやっていました。
絵に才を見せた渡辺崋山
それどころか、絵心のあった崋山は苦しい家計の足しにするために絵を描き、それを売ることで収入を得ていました。崋山は長男であったので、苦しい家計を自分が何とかしなければいけないと感じていたのでしょう。
しかも、崋山の家は大家族であったのでなおさらお金がかかります。
家族のために自分の得意としていることをしてお金を稼ぐという、優しい家族思いな人柄がこういった史実から見えてきます。
渡辺崋山の絵の師
崋山は絵が上手だったとは言えど、全ての知識を独学で身につけたというわけではありませんでした。
最初は白川芝山のもとで絵を学んでいましたが、お金が払えなかったことで、白川芝山から破門にされます。
こういうところにも崋山が裕福ではなかったことがうかがえます。
次に金子金陵から絵を教わります。
金子金陵が谷文晁の弟子だったという経緯から、運良く谷文晁からも絵を教わることができました。
谷文晁は江戸時代後期を代表する南画家でした。
ちなみに南画家は南宋画家が略されたもので、中国に影響を受けたものでありました。
話を戻すと、その南画の大家である谷文晁から教えを受けられた崋山は幸運でしたね。
2人の師匠のもとで学んだ華山は南画だけではなく、さまざまな画法を学びました。
渡辺崋山の代表作「鷹見泉石像」
そしてその成果は崋山のもはや代名詞となった作品である「鷹見泉石像」となって結実します。
「鷹見泉石像」は西洋の画法と日本の画法を組み合わせたものです。
崋山の絵画に対する造詣の深さと、崋山自身の精神性までもが投影されているような、国宝にも指定されている素晴らしい絵画です。
この絵は、友人であり蘭学仲間であった古河藩の鷹見泉石を書いたものです
「一掃百態」
他にも崋山は民を書くことが好きだったとされています。
崋山が書いた作品に「一掃百態」というものがあります。
「一掃百態」の中には生き生きと暮らしている子供たちの姿や民の暮らしが描かれていて、崋山が民たちをよく見て書いたことがわかります。
「一掃百態」では人1人を書くペースも凄まじいものであったと囁かれていて、崋山が絵画にどれほどの熱を捧げているのかも分かります。
藩の家老としての働き
画家としての面もありながら、藩の家老という役職もつとめていた崋山。
天保の飢饉が起きた際は「報民倉」という食料倉庫を準備していたため飢え死にを出しませんでした。
政治とカネなどに見られるように、自分の利益のことばかり考えて民のことを考えずに動く人が多いのが世の常です。
それは政治の世界に限らないことですが、崋山は貧窮な想いをして育った経験から、民を飢えさせまいとしたのでしょう。
その人間としてのあり方は、人の上に立つものとしてのあるべき姿のような気がします。
そして「報民倉」に備蓄していた食料は、役人や自らが倹約をして少しづつ貯めていったものでした。
このときも藩は貧しい状況にありましたが、そんな中でも民を1人も死なせることがなかったのは、役人や自らが我慢をして民のために備えたことが一番の理由だったのです。
【蛮社の獄】渡辺崋山の最期
そんな崋山ですが、蛮社の獄によって捕らえられてしまいます。
獄中で絵を書いていたことに悪評がたち、藩主に迷惑がかからないようにと自害してその生涯を終えます。
民を愛し、国を憂いた天才画家は最後まで藩を思って行動し、その最期は獄中死という悲しいものでした。
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