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柳生宗矩|一介の剣術者から身を起こし、徳川幕府の治世下で大名へ

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柳生宗矩

柳生宗矩(やぎゅうむねのり)、剣術使いとして割と有名な人物ですね。

宗矩は、未だ徳川家康が豊臣秀吉の元で五大老の筆頭を務めていた1594年、その家臣として僅か200石取りの俸禄で仕官を始めます。

あまね

それから42年後の1636年。

徳川幕府第三代将軍・家光の治世時は1万石を超える知行を得て、大名の地位にまで到達しました。

戦国時代を生き抜き、徳川幕府の元で大名としての地位を維持した武将は数あれど、剣術使いの浪人の身から大名にまで上り詰めた人物は、日本の歴史の中でも柳生宗矩、その人ただ一人だと今の世にも伝えられています。

目次

柳生宗矩の父は誰?

柳生新陰流剣術の創始者・柳生宗厳

柳生宗矩の実父は、柳生新陰流剣術を創始したとされる柳生宗厳であり、代々大和の国の柳生の庄を治める地方豪族でした。

しかし柳生宗厳は大和地方を勢力下に納めた筒井順慶、その後の松永久秀などの戦国武将の配下に与した地方の一豪族に過ぎませんでした。

剣術家としては剣聖と称された上泉信綱に師事し、その流派・新陰流の印可を授けられました。

柳生家の没落

あまね

その後、織田信長や豊臣秀吉の治世の時代では柳生宗厳がそれらの政権に重用されることはありませんでした。

そして、細々と柳生新陰流の剣術の研鑽を一族に伝えていきました。

柳生家、ついに日の目を見る。徳川家康に仕官

父・宗厳が徳川家康に剣技を認められる

徳川家康
徳川家康

そんな柳生宗厳に対し1594年の豊臣政権の治世下、大大名となっていた黒田長政が懇意にしていた徳川家康の御前でその剣技を披露する機会を与えました。

柳生宗厳は四男の柳生宗矩と共にその場を迎え、徳川家康の御前で柳生新陰流剣術の極意である無刀取りを実演して見せたと言われてています。

これは自らは刀を持たず、刀を持った相手と対峙し、素手で相手の刀を奪って組み伏せると言う妙技。
その腕前に感服した徳川家康は、柳生宗厳を召し抱えようと出仕を促しました。

息子・宗矩、200石の俸禄で仕官

しかし自らの高齢を理由に柳生宗厳はその申し出を断ります。
代わりに、息子の柳生宗矩を出仕させることの了承を得ました。

こうして柳生宗矩は、徳川家にまず200石の俸禄で仕官することになったのです。

柳生宗矩の関ヶ原の戦いでの活躍。政治工作に成功

柳生宗矩の木像
柳生宗矩の木像

政治工作で徳川家を支援

この仕官から6年後の1600年、石田三成と徳川家康が豊臣政権での主導権を争う関ヶ原の戦いに突入。

柳生宗矩は生まれ育った大和の国の柳生の庄に赴き、その地の豪族を徳川方に味方させる政治工作を成功させ、関ヶ原の戦いでは徳川家康の本陣に加わりました。

悲願達成!旧領の柳生の庄を回復

徳川家康は無事関ヶ原の戦いを制したため、柳生宗矩は実父・柳生宗厳の時代に失陥していた柳生の庄の2,000石が与えられます。
ついに、柳生家の悲願であった旧領の回復をもたらしたのです。

柳生宗矩、秀忠の剣術指南役に抜擢

徳川秀忠
徳川秀忠

次いで翌1601年には、徳川家康の三男で後に第二代将軍となる秀忠の剣術指南役の地位に柳生宗矩は推されます。
これで1,000石を加増され、合計で3,000石を拝領する大身の旗本となりました。

大阪夏の陣での柳生宗矩の働き

そして1615年の大阪夏の陣で徳川秀忠に帯同していた柳生宗矩は、豊臣方が放った刺客複数名を自ら切り伏せて徳川秀忠の身を衛る働きを見せます。
柳生新陰流剣術が実戦の場でも通用する剣法であることを世に知らしめました。

尚この翌年の1616年に徳川家康は他界しています。

柳生宗矩、家光の剣術指南役に抜擢

徳川家光
徳川家光

柳生宗矩は1621年には徳川秀忠の子で後に第三代将軍となる家光の剣術指南役に推され、家康・秀忠と同様に常用されると、1629年には従五位下の位階と但馬守の役職を与えられます。

初代の惣目付に就任

更に1932年には3,000石の加増を受け合計で6,000石取の旗本となると同時に、徳川幕府における初代の惣目付を命じられます。
幕閣内は元より各地の諸大名の動向を監視する重責を担いました。

次いで1638年には更に4,000石の加増を得て遂に1万石に達します。
故郷である大和国に柳生藩を構えて大名となり、最終的には1640年に1万2,500石を領するに至ります。

柳生宗矩の最期

柳生宗矩はその後1646年に76歳の天寿を全うし他界しました。

一介の剣術家が200石取で仕官を始め、大名に上り詰めた例は他に無く、異例の大出世を殊に徳川幕府の治世下で成し遂げた稀有な人物でした。

まとめ

あまね

柳生新陰流の遣い手(剣士)として立身出世を遂げたと言うよりは、初代の惣目付としての政治的な手腕でその座を得たのかな、と感じます。

そうした徳川幕府内でいわば諜報活動のトップとして君臨したと思しき柳生宗矩だけに、後年の創作物などではそうした権謀術数を駆使した野心家としての描写が多いように見受けれます。

柳生宗矩の剣術は徳川将軍家のお留流として江戸柳生とも呼ばれており、その治世下で数多くの大名家にも門下生を多数輩出し、今日にも伝えられています。

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