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徳川家康が江戸幕府を開けたのは天才的な対人関係スキルのおかげ?

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徳川家康

徳川家康と言えば、「泣かぬなら鳴くまで待とう時鳥(ホトトギス)」という言葉が象徴するように、忍耐と努力の積み重ねにより、戦国時代を終焉させた大人物(偉大なる武将)というイメージが一般的なように思います。

泣かぬなら鳴くまで待とう時鳥(ホトトギス)

私も一社会人として、一生をかけて一大事業を完結させた徳川家康の功績は偉大だと感じます。
そして尊敬の念がわき、学生時代から大好きな人物です。

その気持ちは今でも変わりませんが、それにプラスして今では彼に対する愛着の気持ちが大きくなっています。

目次

徳川家康の生涯と功績。弱小国の家に生まれながら天下人になるまで

ということで、今の徳川家康に対する気持ちとして、

  • 偉大さ
  • 尊敬の気持ち
  • 愛着

の3点について彼の生涯について振り返りながら、まとめて行きます。

生まれ

竹千代
竹千代は徳川家康の幼名。

徳川家康は戦国時代の真っ只中であった1543年1月31日(ユリウス暦・和暦だと天文11年12月26日)に誕生しました。

父は三河(現在の愛知県東部)岡崎城主松平広忠。
その嫡男として岡崎城にて生まれています。

この出生が将来の天下人に登り詰めていくスタートラインになります。
およそ当時の家康自身と家康の周りにいた家臣達を含めて、天下人になるイメージを持っていた人は皆無であったでしょう。

戦国大名として他国に一目置かれている偉大なる家に生まれたわけではありません。
今川家や織田家といった強力な戦国武将に挟まれた弱小国の家に生まれています。

人質として織田家へ

3歳の頃、母と生き別れになり、6歳で人質生活が始まります。

初めは織田家、次いで今川家に人質として身を置き、桶狭間の戦い(1560年)まで、いつ亡くなってもおかしくない状況下で過ごしています。

生まれてから20歳くらいまでを見たとき、少なくても天下人にのぼり詰める余韻などは皆無です。

みこと

でも私はこの段階で早くも家康の「偉大さ」、「尊敬の気持ち」、「愛着」の3つのキーワードを感じてしまいます✨

なぜかというと、人質として身を置いた織田家においては、嫡男であり天下統一に向けた最初の武将となった織田信長と同盟関係を結ぶような関係となるわけです。

家康が尊敬する源頼朝は、人質とした平家を、憎い仇として、滅亡に追い込んでいます。

普通は将来手を結ぶような関係になることは難しいでしょう。

織田信長
織田信長

ですが、家康は違いました。
織田家と友好関係を結んだのです。
そんな家康の対人関係を築くうまさ、偉大さ、尊敬の気持ちが涌いてきます。

次は今川家で人質へ。元服と結婚

次に人質として身を置くことになった今川家でもそうです。
今川家の嫡男であった今川氏真の将来の良き参謀+相談相手として今川義元に目をかけてもらっているような史実があります。

みこと

家康も家康を支える三河家臣団も、戦となれば、1番危険である先方を担うことが多く、命がけの日々が続いたことは想像できますね。

また家康を支えていた三河家臣団も、家康を見捨てることなく、命をかけて、家康を守りお家を守ることに懸命に尽くしています。

そして14歳で元服し、今川義元から「元」の字を貰い、「松平元信(のちに元康に改名)」と名乗ります。

家康が16歳頃、今川家にゆかりのある女性を正室にむかえています。

築山殿。徳川家康の正室。
築山殿。徳川家康の正室。

そして、17歳で初陣に出ます。

1560年、桶狭間の戦い→独立

桶狭間の戦いで今川義元が戦死したため、18歳の家康は今川家から独立しようとします。
そのために家康は織田信長と同盟を結び、三河から今川勢を追い出しました。

途中、今川義元からもらった「元」の字を捨て、「家康」を名乗るようになります。

1566年頃、家康は三河を統一し、三河守の官職を得るために「松平から徳川」への改姓を行っています。

織田家とともに戦果を挙げる

この後も織田信長との同盟関係は続き、金ヶ崎の戦いや姉川の戦い(ともに1570年)で戦果を挙げています。
一方で、武田信玄との戦いではかなり苦戦します。

特に三方ヶ原の戦い(1573年)では多くの家臣を失い、家康自身も死を覚悟しています。
織田信長の協力があり、長篠の戦い(1575年)や高天神城の戦い(1574、1581年)で、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼に勝ち、武田家を滅ぼすことになります。

甲斐(山梨県)から安土城に戻る織田信長を道中でもてなし、その返礼として家康は安土に招待されます。
1582年、家康は安土城で織田信長の接待を受けた後、堺見物に行きます。
家康が堺見物をしているときに本能寺の変が起き、家康は必死の思いで領国に戻りました。

領国に戻った家康は空白地帯となった甲斐、信濃(長野県)を支配下にします。

豊臣家との覇権争い

豊臣秀吉
豊臣秀吉

1584年、「織田信長の後継者」という地位を得た豊臣秀吉(この頃はまだ羽柴秀吉ですが、便宜上統一)と小牧・長久手で戦い、戦局は家康が有利な状態で、和睦します。

豊臣秀吉の家臣となった家康は豊臣政権で有力大名となります。
豊臣秀吉による、小田原征伐の後、1590年に江戸に移ります。

1596年頃には内大臣になっており、のちに五大老筆頭になります。
1598年に豊臣秀吉が死ぬとその2年後に起こった関ヶ原の戦い(1600年)に勝利し、天下人に近づきます。

1603年に征夷大将軍になり、江戸幕府を開きます。
1614年から1615年の大坂冬の陣と夏の陣で、豊臣秀頼を自害に追い込み、1867年まで続く太平の世が始まりました。

徳川家康の性格:人間関係を築くことが上手

みこと

よくぞ人質時代を我慢し、生きながらえる努力を続けましたよね!
それだけで「偉大さ」と「尊敬の気持ち」はうまれてきます✨

また人間関係を築くことが上手であった点にも注目したいです。
どこかで人々に愛される「愛着」にもあふれていた人物ではあったのではないかと推測できますね。

家康の生涯を振り返っていくとき、状況の困難さを感じる時期は、生まれてから桶狭間の戦い(1560年)までで終了するわけではなく、まだまだ待ち受けていたわけです。

「三大危機」も持ち前の対人関係スキルで乗り切る

いわゆる三大危機といわれているシーンです。

この三大危機でも、家康の持っている人間関係を築いていく上手さを感じます。
そこからも、偉大であり尊敬する気持ちを感じ、愛着のある人物であったと考えられます。

1、三河一向一揆

三河一国の主としては最初の困難であった一向一揆。
自分の家臣の中からも敵対する関係になってしまった家臣もでてきてしまいました。

それでも自分の落ち度を認め、敵対関係になってしまった家臣達を、自分の配下に組み入れています。
首謀者の本多正信の命を助け、将来的には側近として取り立ててもいます。

そういえば敵対関係にあった関係でいえば、今川氏真の命も助け、最後まで面倒をみていましたし、武田家滅亡後も、家臣たちの面倒もみていました。

2、三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦いでの敗戦直後の徳川家康。
三方ヶ原の戦いで敗戦直後の家康。

次の三方ヶ原の戦いでは、戦国最強といわれた武田信玄軍に本当に追い込まれてしまいましたが、身代わりとなってくれた夏目により、命が繋がりました。

その夏目は三河一向一揆で敵対関係になった家臣でしたが、家臣として取り立てたことで、夏目は恩義に感じていたのでしょう。

3、伊賀越え

3番目の危機であった伊賀越えでも、白子海岸までの道のりを手助けしてくれた人たちがいましたね。

徳川家康の生涯を振り返っていくと、忍耐力にすぐれた努力家という部分の他に、対人関係を築く天才であり、人を惹きつける愛嬌ある人柄が根底にあって、もしかするとその愛嬌が最大の魅力であった気がしています。

それが本能寺の変を経て、また関ヶ原の戦いを経て、大坂の陣を経て、そして訪れた徳川家による天下統一の達成に繋がった要因であったと考えています。

なぜ徳川家康が好きなのか?

みこと

私が家康を好きなワケは大きく分けて2点あります。

家臣を大事にするところ

元々、祖父の代から家臣団とのつながりがあり、強い絆で結ばれていました。

家康の代で選ぶと夏目吉信と鳥居元忠は忘れられない存在です。
夏目吉信は三方ヶ原の戦いで、家康の鎧兜を強引に奪い、自ら囮となって家康が逃げる時間を作ります。

また、鳥居元忠は家康が会津征伐(1599年頃)に行く時、敵に攻められることを承知で、伏見城の守りを引き受けます。厳しい戦になることがわかっているにもかかわらず「より多くの兵を連れて行ってください」と言えるのは凄いです。

結果的に夏目吉信も鳥居元忠も討ち死にします。
家康は夏目吉信を手厚く弔います。

鳥居元忠の子孫は江戸時代に2、3度、不祥事を起こしましたが、その度に「先祖の多大な功」を理由に改易を免れています。

もちろん、他の家臣との関係も良好で、主君と家臣という立場や家臣同士の上下関係を忘れて、皆が言いたいことを言える関係だったようです。
そういう関係だからこそ、本能寺の変の後の「神君伊賀越え」を幹部、忍者、お抱えの商人が力を合わせて、乗り切れたのだと思います。

家康たちは伊賀から伊勢(三重県)から三河まで船で移動しています、
このとき船を出してくれた人に「全国どこの港でも入港して良い」という書状を送って、感謝の気持ちを伝えているところも好きです。

豊臣秀吉が天下人になったとき秀吉は自慢の茶器を家康に披露して、家康の宝物を訊きます。

家康は「田舎者だから茶器のような物は持っていないけど、私のためなら火の中、水の中、突き進む家臣こそが私の宝物」と答え、豊臣秀吉が羨ましがった話も家康らしいと思います。

家臣ではないですが、関ヶ原の戦いのきっかけとなった直江状で散々、家康を煽った直江兼続(上杉景勝の家臣)に対して、寛容な態度をとったところも好感が持てます。

最終的に天下を収めたところ

葵の御紋
葵の御紋

そんな家康が最終的に天下人になり、幕府を開きました。
戦国時代の勝者です。

「強い戦国大名」を訊いたら、島津家だったり、武田信玄だったり、分かれると思います。

家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄にコテンパンにやられているので、「家康が最強」と言ったら疑問を持つ方もいるでしょう。
ただ、「最終的な勝者が強い」と考えると家康が最強だと思います。

「旧武田家臣を配下に招いて、強い家臣団を作った」と認識しています。
このように考えると「若かりしときに武田信玄に負けたこと」と「武田信玄が最強」という主張とも折り合いをつけることができます。

まとめ

現代は戦国時代とはまた違った生きづらさを感じることがありますが、徳川家康という人物の生涯を振り返って、参考にしていきたいですね。

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