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兵法家・丸目長恵。タイ捨流兵法の流祖で文化的側面にも優れた教養人

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丸目長恵

丸目長恵は相良氏に仕え、兵法家として活躍した人物です。

目次

丸目長恵の生涯

剣豪・上泉信綱のもとで学ぶ


長恵の師匠は、数々の伝説を残したことで有名な剣豪・上泉信綱。

彼は幼少のころから兵法の修業に励んでおり、上泉信綱に弟子入りする前から、かなりの兵法者だったと思われます。

その証拠に、上泉信綱(伊勢守)に師事し兵法の修行をしてから、たった3年で伊勢守門下四天王にまで上り詰めています。

みこと

3年って?
恐ろし過ぎるぐらいの才能ですね!

そして室町幕府の将軍・足利義輝の前で信綱が兵法を上覧した際、信綱の相手を果たし、義輝から感状を授かったことを考えたら、かなりのレベルに到達していたことが推測できます。

しかも、まだまだ若いころので、このレベルですからゾッとしますね!

武将としてはなかなか芽が出なかったが…。

みこと

そんな丸目長恵ですが、武将としてはかなりの苦労人です。

相良家からは、敗戦の責任を負わせて逼塞の処罰を受けることになります。

当時としては、かなり重い罰でリストラに近いです。
ただ、そのおかげで丸目長恵は、兵法の修業に集中できるようになります。

浪人に近い風貌で九州地方で次々に剣豪を倒し、一躍有名になります。
ここら辺の丸目長恵が体力的に1番の全盛期かな?と個人的には思います。

いったん干されますが、この剣豪ぶりのおかげで西国での新陰流の教授を任されるようになります。
離れて暮らす信綱から任命を受けるぐらいですから、剣術の実力だけでなく人としても信頼されていたことよく分かりますね。

1587年に長恵は再び相良氏に仕えることになります。
このときの長恵はすでに兵法者としての地位が確立されていたので、当然と言えば必然ですね!

しかも、新知117石も得ています。
このことを考えたら、単なる兵法者とは思えないほど評価されていることが分かりますよね。

一歩間違えれば、武将として切腹していた可能性があった長恵ですが、兵法者としてだけでなく、武将としても大きな成功を収めています。

今の時代と違って、実力がどんなにあっても仕える武将を間違えると目が出ません。
時には、義理が強ければ、強いほど生き残れる可能性が低くなる場合があります。

丸目長恵の凄いところは?

長恵の凄いところは、自分から評価・認められるようにアピールするのではなく、相手から見惚れる人物に成長していくところです。

その証拠に家中に限らず他家にも弟子が数多くいます。
その中には、蒲池鑑広や立花宗茂の名前も!
この名を聞いただけでも、戦国通の人なら長恵の凄さが分かると思います。

また、長恵は剣術以外にも多くの戦術を学んでいます。
薙刀術、馬術、忍術、手裏剣にも秀でています。

ここから判断すると、かなり身軽で身体能力が高かったのでしょう。
知的で研究熱心、しかも真面目なコツコツタイプです。

九州地方がメインでの活躍になりますが、もし活躍の場が京都周辺だったら長恵の人生はどうだったのか?

真っすぐな人柄だったので、信長には従う可能性は低いし、逆に武田家や上杉家、明智家と相性が良さそうな気がします。
ただ、真田幸村でも干される時代なので、出会いって重要だなとしみじみと感じます。

また、長恵は書、和歌、仕舞、笛などの文化的な面にも優れていました。
頭もいいし、華がありそうな雰囲気が伝わってきます。
千利休なんかと遭遇したら面白かったかも知れませんね。

まとめ

みこと

丸目長恵の生涯には数々の逸話が残されており、その人間性や偉業は、もっと評価されても良い人物だと思います。


彼の武道の技術は多くの武将に受け継がれ、戦国時代の武芸の発展に大きく貢献しました。
また、彼の文化への熱意も素晴らしいですね。

私の中では最高の剣豪は誰かと聞かれれば、迷うことなく丸目蔵人佐長恵と答えます。

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