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立花宗茂の生涯|関ヶ原の戦いで改易されたが、唯一元の領地で大名へと復活

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立花宗茂

日本の戦国時代と言えば天下を手中に収めた織田信長豊臣秀吉徳川家康など、名だたる武将が全国で群雄割拠していました。
現在でも日本史の中で最も人気の高い時期であることは間違いないと思われます。

そんな時代の終盤に生まれ、実に他に比類なき武将となったのが九州の地にあった立花宗茂です。

豊臣秀吉にその武勇を称賛され取り立てられたことから、その恩に報いるべく豊臣秀吉没後に徳川家康が事実上の覇者たることを悪呈させた関ケ原の戦い。
宗茂は豊臣方の武将として参戦するも敗北、領地を召し上げられ浪人となりました。

改易されながらも後にかつての自身の領地の大名として復活を果たした人物は、立花宗茂(たちばなむねしげ)その人ひとりしか存在しません。

みこと

それだけ、関ヶ原の戦いで対峙した徳川家康からもその実力を認められた唯一無二の戦国大名です。

目次

立花宗茂の誕生

立花宗茂が誕生したのは戦国時代も晩年に差し掛かった永禄10年1567年のこと。

当時の九州で最大の勢力を誇った大友宗麟の重臣で、武勇に秀でた名将として名高い高橋紹運(たかはしじょううん)の嫡男としてその戦乱の世に生を受けました。

高橋紹運
宗成の父、高橋紹運の肖像画

立花宗茂の元服と初陣

元服時には高橋統虎(たかはしむねとら)を名乗りました。

立花宗茂は数えで15歳を迎えた1581年に父・高橋紹運、そして後に義理の父親となる立花道雪と共に初陣に挑み、敵将の堀江備前を討ち取ることに貢献しました。

武勇は誉れ高い立花道雪に請われ、立花家の婿養子になる

実父の高橋紹運も知勇兼備の戦国武将として大友家を支えた人物でした。

なぜ父と子で苗字が異なるのかと言えば、立花宗茂は嫡男にも関わらず、同じ大友家の重臣であった立花道雪の元へ婿養子として迎えられたためです。

立花道雪は高橋紹運と同じ大友家の重臣とは言え年長者。
自身には娘1人しか子がおらず、高橋家の嫡男であり跡継ぎであることは十分承知の上で無理な願いを行いました。

それは1581年、まだ14歳を迎える若年の立花宗茂の戦国武将としての力量を見初めたためでした。
高橋紹運には他にも男児があったとは言え、無理を押しての頼みでした。

高橋紹運はもちろん当初はこの申し出を渋ったものの、立花道雪の真摯な頼みを受け入れその件を承諾。
娘の誾千代(ぎんちよ)の婿として立花宗茂が迎え入れられました。

そうしてここに実父も養父も名将として知られる立花宗茂が名実ともに戦国の世に誕生しました。

当時の九州勢力図

立花家の婿養子となった立花宗茂は、立花道雪からすぐに家督を譲られ当主となり、筑前の立花山城主として大友家を支える有力武将となりました。

当時の九州は大友家以外に竜造寺家、島津家が力を持っており、三つ巴の勢力争いを繰り広げていました。

しかし一時は九州で最大の勢力を誇った大友家も、龍造寺家や島津家の台頭を受けて次第に勢力が衰えていきます。

更に島津家は龍蔵寺家当主であった龍蔵寺隆信を戦で討ち取り勢力を増します。
そして1586年には立花宗茂らが預かっていた筑前への侵攻を開始。
既にかつての勢いを失っていた大友家は風前の灯と言う状態でした。

大友家の当主であった大友宗麟は、自力で島津家を退けることは困難だと判断し、織田信長の跡を受け継いで中央で勢力を拡大させていた豊臣秀吉に臣従する道を選び、その援軍を請いました。

立花宗茂の実父であった高橋紹運は居城の岩屋城に籠城して島津家を相手に奮戦。
大打撃を与えるも多勢に無勢。
降伏勧告を受け入れず、壮絶な討ち死にを遂げました。

立花宗茂自身も居城の立花山城に籠城して豊臣秀吉からの援軍を待ちます。

そして豊臣秀吉から援軍の到着が近いと見た島津家が退却を始めると、宗茂は其の機を逃さずに立花山城から討って出て援軍が到着する前に島津家を追い払い、陥落させられていた諸城を奪還しました。

天下人・豊臣秀吉にも称賛された立花宗茂の忠義と武勇

豊臣秀吉
豊臣秀吉

やがて万余の軍勢を引きつれて豊臣秀吉は九州に上陸。
既に筑前から島津家を追い落とした立花宗茂の武将としての器量を称賛、武勇・忠義共に九州一であると最大限の祝辞を送ったと伝えられています。

豊臣秀吉による九州征伐が成功し、島津家が退けられると立花宗茂は主家であった大友家から独立。
豊臣秀吉の直臣としてとして取り立てられ、筑後の柳川に8万石の領地を与えられました。

豊臣家の直臣時代

官位

こうして豊臣家の直臣となった宗茂は、1588年には豊臣秀吉の執り成しで官位として従五位下の侍従。
その後すぐに従四位下の叙任を受け、更に豊臣姓の下賜も許され豊臣家の治世下で一門の武将として優遇されました。

朝鮮出兵

1592年からの朝鮮出兵にも出陣。
兵の数こそ2,500名と決して多くななかったものの、彼の地でも小早川隆景の傘下で幾多の活躍を見せ、立花家の軍勢は他家の万の軍に匹敵すると評価されたと伝えられています。

朝鮮出兵においても立花家の軍勢がここまで精強だと評価された理由の一つに、鉄砲の活用法が独特だったとも言われています。
早込めと呼ばれる火縄銃の銃弾の装填を迅速にする工夫で、敵よりも有効に鉄砲の活用を行ったとも伝えられています。

宗茂、豊臣家への恩義に報いるため西軍に加わる

立花宗成
立花宗成の肖像画

そうして豊臣方の戦国大名となった立花宗茂でしたが、豊臣秀吉の死後にはその配下の5大老の筆頭であった徳川家康が台頭。
遂に1600年、石田三成率いる西軍と、徳川家康側の東軍とに分かれ関ヶ原の戦いが起こります。

このときに立花宗茂の家臣らの一部からも、優勢な徳川方に味方するべきとの意見もありました。
しかし豊臣秀吉に直臣の大名にまで取り立てられた立花宗茂はそうした考えを由とせず、迷わず恩義のある豊臣方であると信じた石田三成の西軍に加わりました。

みなさんご存じのように関ヶ原の戦いは最初こそ互角の展開に見えたものの、小早川秀秋ら西軍武将の相次ぐ裏切りと離反によって徳川方の東軍が勝利を収め、僅か半日で決着が着きました。

敗れた立花宗茂は一旦大坂城に入り、名目上の西軍の総大将であった毛利輝元に徹底抗戦を訴えますが聞き入れられず、自領である筑後・柳川へと逃れました。

宗茂、父の仇である島津家に手を下さず

そしてこのとき立花宗茂は、自身と同じく西軍に加わり敗れて薩摩に下向する島津義弘と期せずして同じ船に乗り合わすことに。

島津家は謂わずと知れた立花宗茂の実父である高橋紹運の直接の仇。
当然立花宗茂の家臣らの中には今こそ島津義弘を討って積年の恨みを晴らすべきと主張する声もありました。

でも立花宗茂は今は同じ戦で敗軍となり共に逃れる境遇であり、そのような行いは武士たるものの行いではないと一喝します。
そして寧ろ少数の島津義弘らを護衛するような形で、共に九州へと逃れました。

この逸話が何処まで正確なものかは定かではありませんが、立花宗茂という知勇兼備の戦国武将を物語る上で、よくその人となりを著していると感じます。

立花宗茂の改易後の華麗なる大名復活

こうして関ヶ原の戦いに敗れ、改易の憂き目にあった立花宗茂でした。

けれども4年後の1604年にかつて豊臣秀吉に共に東西の名将と称えられた徳川家康の重臣・本多忠勝の取り成しで徳川幕府で御書院番頭として5,000石を支給されてその旗本となります。

更にその2年後の1606年には陸奥の棚倉に1万石の領地を与えられて大名に返り咲きました。

その後更に14年を経た1620年のこと、その武勇と人柄から旧領であった柳川を再び与えられます。
遂に立花宗茂は、元々の領地であった筑後・柳川の地を再度治めることになったのです。
子孫は明治の時代までその領地を代々受けつぎました。

立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に与した中で唯一、大名として復活すると言う稀有な存在となりました。

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